宮沢賢治2
出典: Jinkawiki
幼少期
1896年(明治29)8月27日、岩手県花巻市に商家の長男として生まれた。父は熱心な浄土真宗の信者であった。冷害などで苦しむ東北の人々に対して、生家が裕福であることに負い目を感じており、この思いが宮沢賢治の文学をはじめ全生涯の基礎ともいえるものとなっている。
少年時代から植物や昆虫の採集を好んでおり、特に小さいころから石が好きで、「石っ子賢さん」と呼ばれていた。盛岡高等農林学校に入学し、この盛岡高農時代から日蓮宗を信仰しており、以後、宗教の問題からしばしば父と対立することとなる。
作家活動の開始
卒業後1921年、稗貫農学校(現花巻高等農業学校)で教師となり、数学・化学・英語・農業などを教える。翌年の1922年(大正11)から『春と修羅』の詩作を始めたり、童話集『注文の多い料理店』をはじめとする幻想的でヒューマニズムな童話のほとんどを書くなど、文学的に充実した時期であった。賢治は童話のなかで、岩手県のことを「イーハトーブ」と呼び、その「林や野原や鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきた」話を多く残している。また、最愛の妹トシ(享年24歳)を失ったのもこの時期であり、賢治はトシの死んだ日にその悲痛な思いを「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の詩に表した。やがて農民の直面する現実に目を向けるようになり、1926年(大正15)農学校を退職し、自炊生活をしながら羅須地人協会を設立。肥料稲作巡回相談など農村に貢献した。
病床での活動
厳しい自然と重労働から肋膜炎を患った1928年(昭和3)ころから健康状態が悪化するが、病床の中でも「雨ニモマケズ」の詩を賢治がいつももっていた手帳に書き、長編童話『グスコーブドリの伝記』を発表、『銀河鉄道の夜』の推敲を重ねるなど、文学活動を続けた。賢治は1933年(昭和8)に疲労と急性肺炎によって亡くなるが、その亡くなる37歳まで、宮沢賢治の名はほとんど知られていなかった。生きている間に出版された本は、童話集「注文の多い料理店」と詩集「春と修羅」のそれぞれ一冊だけであった。没後、草野心平によって世に紹介されて評価が高まり、いくつかの全集が編まれた。今では多くの作品を通して日本中でとても親しまれている。
参考
- 宮沢賢治の宇宙 http://www.kenji-world.net/
- 常用国語便覧(2002年)浜島書店
- 21世紀こども人物館(1999年)小学館