富山県・富山市
出典: Jinkawiki
立地
県の中央部に位置し、近世初頭から中枢管理機能を持つ都市。地形的には、県の中央部を南北に走る標高76.8Mの呉羽丘陵を西にひかえた神通川と常願寺川の複合扇状地にある。江戸時に城下町となって以来管理・消費・文化の中枢をにない発展してきた。神通川を防衛機能として、鼬川が町内とを区切り、城下町との管理統制を容易にしていた。
沿革
現在の富山市街は富山城の城下町から発展。城構築以前、この地は富山郷と呼ばれていた。富山の呼称はこの地名に始まる。 常願寺川と神通川にはさまれた旧市域は、常願寺川扇状地に立地している。
近世
天文9年(1540)、豪族水野氏が富山城を築いたのに始まり、その後佐々成政の居城、次いで加賀藩主二代前田利長の居城、寛永16年(1639)に三代藩主前田利次が分藩、富山城を築いて以来幕末まで富山藩主居城の町として発達。
~前田利長の入場~ 加賀藩第二代藩主前田利長は慶長11年(1606)に隠居して金沢から富山に移った。当時、北国街道は西から呉羽山を越え、神通川を舟橋村から富山町の小島町に渡り、柳町、稲荷町に抜けていたと考えられる。したがって富山町は神通川と鼬川の間にあり、西部に富山城、東部に町があった。慶長14年(1609)の富山火災後、利長は高岡に転住。 寛永16年(1639)富山藩ができる。前田利次は妊婦郡百塚山に築城を計画したが、ならないまま加賀藩から借り金沢から移った。万治2年(1659)、利次は飛地領を富山町および同町近郊の新川領と領替えする許可を得、寛文元年(1661)より富山を城下として本格的に再編成にかかった。従来の富山町の南限に北国街道を通し、その南の西部に武家町を、東部に寺町を新設。
東方に流れる常願寺川は神通川を西に押し出すように流れ扇状地を作っている。常願寺川扇央部は水が得にくく、常願寺川から太田用水、清水又用水などにより引水することで開拓が進んだ。神通川の左岸から射水地方の東半は、加賀藩により寛永期に開則された牛ヶ首用水により安定した美田となった。呉羽丘陵の古沢野は宝永年間に古沢野用水が開則されたことにより開かれた。神通川下流の三角州湿地帯も江戸時を通じ開拓された。
近代
旧城址は明治15年に公園として開放され、県庁が置かれた。神通川の舟橋は同15年に神通大橋に代えられ、この頃製菓会社広貫堂、商工会議所、師範学校、中学校、東西別院ができた、富山城の外濠が埋め立てられ総曲輪商店街ができていった。神通川は富山城の来たで曲がっていたので水はけが悪く、富山城によく洪水をもたらした。そこで直線の河道が掘られ、旧河道は廃川地となった。ここが大正から昭和期にかけて埋め立てられ、県庁・北陸電力会社・警察署・金融機関などの並ぶ近代的ビジネス街が建設された。 神通川の河口港の東岩瀬港は、土砂の堆積が第で、大型船の出入りが不可能であったこと、また神通川の排水能力を高めるために、大正7年以来、内務省は神通川改修を計画した。この間に富岩鉄道工事が始まり、昭和2年に完成し、東岩瀬港は富山駅で国鉄北陸本線に通じ、国鉄高山線は昭和9年に富山に通じた。また水路で富岩運河も昭和10年に完成。昭和14年に開港場の指名を受け、昭和8年には布目~打山間に富山飛行場ができた。この港湾、交通整備、満州事変以来の対岸貿易により、工場が相次いで進出した。
本格的な復興は朝鮮戦争を契機に急速になされた。富山港周辺には昭和25年に倉敷レーヨン、昭和33年に三菱アセテート、昭和36年に新日本化学、昭和44年に日本海石油製油所などの大工業が進出したのに対し、富山市街東部には昭和3年の不仁越富山工場などの機械工業が興っている。
参考文献
日本地誌10富山県石川県福井県 (編)青野壽郎 尾留川正平
角川日本地名大辞典10富山県 (編)角川日本地名大辞典編纂委員会 竹内理三
富山県大百科事典 (編)富山県大百科事典編集部