小村寿太郎
出典: Jinkawiki
小村寿太郎
1. 人物
1855年(安政2年)9月16日生まれ。宮崎県飫肥藩出身。6歳のときに飫肥藩校振徳堂へ入学し15歳で卒業した。大家族で貧しかったため、寮の雑役をして学費を免除してもらう。また小倉処平から才能を高く評価され、英語を学ぶために長崎へ留学し、翌年藩の代表学生として入学した。その後、1871年(明治4年)藩貢進生として、大学南校で学んだのち20歳のとき文部省の最初の留学生としてハーバード大学に入学。法律学を専攻する。 アメリカ留学から帰国して25歳の時に司法省に入り、刑事局勤務となり翌年判事となって大阪控裁判所勤務になったが、司法官時代は英語ができるだけの無能な男と評価されていた。職務を離れると大酒のみ、女遊びが激しかったようだ。旧幕臣朝比奈孝一の長女町子と結婚。
1884年(明治17年)29歳のとき、外務省に移り翻訳局長、清国代理公使となる。そのころ、父の寛の作った借金の支払いに追われており、服も粗末で破れた靴をはき、いつももらいタバコを吸っている状態であった。昇進は思うに任せず、また毎日が酒を飲み、女遊びという日々に戻っていった。 しかし、外務大臣陸奥宗光の目にとまり、1893年にようやく表舞台へ出ていく。1897年(明治30年)陸奥の推薦で第一次桂内閣の外務次官となり、その後46歳という若さで外務大臣となった。外務大臣となった寿太郎は、当時中国から撤兵しないロシアをけん制したいと考えていたイギリスと交渉を重ねる。1901年(明治34年)外相に就任、日英同盟を結び、満州・朝鮮問題をめぐり日露交渉をおこなった。回避不可能と考えられていた日露戦争に対する備えである。 また、日露戦争がはじまると、当初は日本有利に戦いを進めていたが圧倒的な軍事力を有するロシアに対しては日本の国力ではやがて形成逆転してしまうと考え、ロシアとの講和の必要を説いた。しかし講和は受け入れてもらえず非難を浴びることとなるが自らの信念を貫き、講和条約締結へ動き出した。時間はかかったが、粘り強い努力と、巧みな交渉術と、日本政府の譲歩などによりポーツマス条約が締結された。ポーツマス条約を結び、日露の平和を達成した。実際は、ポーツマス条約の締結に際して、小村は交渉の打ち切りと戦争の継続を主張し続けた。しかし、セオドア・ローズベルトが日本の本国政府に直接訴えて小村を迎えこんだ。本来は、戦争を継続したかったが上のようなことが起こり戦争を締結させる。強硬派から非難され続けたが、死ぬまで一言の釈明もしなかった。
偉大とされるのは、優れた洞察力をあくまでも政策に実現しようとする意志、行動があるからだ。それらは、愛国心があってこそだった。小村は、外務省の高位高官という地位を失っても自分の信念を貫くという純粋さがある。 1908年外相に再任し、列強との共同歩調で大陸利権を確保するという方針のもとに高平・ルート協定、第2回日露協約を結び、韓国併合を推進した。一方、関税自主権回復による不平等条約の完全撤廃を実現した。侯爵の称号を授けられる。 1911年の条約改正半年後に引退。その3ヶ月後に死去。(1911年(明治44年)11月26日没。)
2. 日英同盟
小村寿太郎が頭角を現しはじめたとされる、日英同盟について詳しくみていきたいと思う。小村の外交は、日英同盟のもとの大陸膨張政策とされたようだ。日英同盟のはじめは、ロシアのちにドイツを対象とした日本とイギリスの軍事義務を伴う同盟。1902年(明治35年)1月30日成立。(第一次協約)その後、第二次、第三次と継続更新されたのち、1923年(大正12年)8月17日の日本、アメリカ、フランス、イギリスによる四カ国条約の発効により終了するまで、およそ20年6か月も続き日本外交政策の骨髄とされた。日英同盟は、日本の国益を守る上で大きな役割を担っていた。日本の国家進路を決した同盟といえる。 明治政府は日英同盟の条約秘密交渉を続行していた。伊藤博文がロシアを訪問したことはイギリスを極めて神経質にさせたといえる。外相の小村寿太郎は2国を対象にした交渉が開始されると、まずはじめにイギリスが歴史上、同盟が規定する約束を不履行にした経験があるか否かを外務省に徹底的に調べさせていた。調査の結果、外務省はイギリスの履行度合を高く評価することとなる。その結果伊藤博文は日英同盟の選択に同意する。ロシアをインドへの関心から引き離し、極東に釘づけにさせたいイギリスの思惑がある。ロシアの脅威に対する一定の抑止力を得たいという日本の思惑もそこにはあった。両国の利益がかさなり、日英同盟は結ばれた。日本は第一次世界大戦がはじまると、日英同盟を利用しドイツに宣戦を布告し、青島のドイツ租借地や、南洋群島を占領した。
第一次協約の交渉は、北清事変後中国をめぐる列強の対立と、ロシアの満州占領がきっかけだった。ロシア陸軍をけん制する必要からイギリスは、孤立をやめ日本と手を組んだ。小村寿太郎が中心となり、ロシアと協商しても対決は防げないとして駐英公使林董が交渉した。結果、締約国が他の一国と戦争状態に入ったとき、同盟国は中立を守り他国の参戦防止に努める。また、二国以上と戦争状態に入った場合は、同盟国は参戦することを義務とする。ロンドンで調印され、海軍の協力に関する秘密公文が交換される。日本はイギリスに、軍事援助ではなく、財政援助を申し入れた。
第二次協約は、日露戦争末期の1905年8月12日に調印。この協約の目的は、東アジアだけでなくインドも含めた平和の確保、日英の領土権の維持ならびに日英両国の特殊利益を防護するものになり、防御同盟から攻守同盟へ変更された。
第三次協約は1911年7月13日に調印。イギリスがアメリカと交戦する可能性を消すために、アメリカを同盟の適用範囲外とした。アメリカは、普遍的な国際協力による平和と安定を目指す理想主義外交に脅威を与えるものと考えていた。そして、その後太平洋の現状維持と領土保全を定めた四カ国条約による置き換えを図り実現された。日露戦争をするうえで、日英同盟はとても役に立ったといえる。しかし、日露戦争後は同盟の目的そのものが希薄になっていき、1921年に破棄されることとなった。日英同盟の締結の際に、英国の歴史家イアン・ニッシュが「同盟がひとつの状態にとどまっていることはありえない。」としている。
3. 参考文献
Yahoo!百科事典 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%AF%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E/ (2011.1.17参照)
小村寿太郎 http://www.okazaki-inst.jp/yoyogi.html (2011.1.17参照)
http://www.0503ak1025.net/zz-komura.html (2011.1.17参照)
日英同盟 http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_7.htm (2011.1.17参照)