小林多喜二

出典: Jinkawiki

幼少期から青年期

   秋田県の貧しい農家に生まれ、多喜二が4歳の時伯父を頼り、一家で北海道の小樽に移り住み、そこで成長した。伯父の援助で小樽商業学校、小樽高等商業学校に行くことができた。小樽高商在学中に大正から昭和への変換期を迎え、その動向を文学的に追及しようとした。ドストエフスキー(19世紀ロシアのリアリズム文学を代表する世界的文豪)から志賀直哉に傾倒し、リアリズムの手法を学ぶ。後に、志賀直哉との文通を通してリアリズムを社会主義の中に高めようとした。


労働運動へ近づく

 卒業後の大正13年、当時の拓殖銀行に勤める傍ら、同人誌「クラルテ」を発行して人間の苦悩の社会的根源を追及した。その姿勢から社会主義思想を学び、小樽の労働運動に近づき、葉山嘉樹(プロレタリア文学作家、『セメント樽の中の手紙』が代表作品)やゴーリキー(ロシアのリアリズム表現の先駆者)の作品に感銘を受けてプロレタリア文学への関心を寄せ始める。昭和三年、銀行に勤めながら、雑誌「戦旗」に3・15事件を取材して特高警察による拷問に耐える共産党員を取り上げた『一九二八年三月十五日』を発表し、プロレタリア文学の有望な新人として注目を集めた。翌4年『蟹工船』で、労働者の集団とその戦いをえがいて作家としての地位を固めた。同年の『不在地主』でプロレタリア文学の第一人者となるが、銀行を解雇される原因ともなった。翌5年、銀行を追われて上京し、昭和6年にプロレタリア作家同盟書記長となり、共産党に入党した。そのころから共産党への弾圧が始まり、その弾圧の中、多喜二は創作活動と融合させ『転形期の人々』(昭和6)、『党生活者』(昭和8)を執筆するが、検挙され、東京築地署で特高の拷問により殺された。


参考


  人間科学大事典

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