小田原攻め
出典: Jinkawiki
天正十八年(1590)に豊臣秀吉が関東の後北条氏を滅ぼした戦い。天正十五年(1587)に島津を降伏させて九州を平定した秀吉は、すでに惣無事令を伝達して北条氏政・氏直父子にも上洛を命じていた。しかし北条氏はそれに応じるどころか、むしろ秀吉との対決姿勢を強めていった。すでに大外郭の工事を済ませていて、北条氏が伝統的に得意とする籠城戦によって豊臣勢の侵攻に備えるために、急遽実施したものと考えられる。かつて上杉・武田という強敵を退けたように、籠城戦によって56000の城兵の兵力を失うのを避けつつ、二十数万のといわれる包囲軍の兵糧か枯渇するのを待つという戦術にでた。外郭の完成によって北条氏は数か月間豊臣勢の猛攻をしのぐことができたが、豊臣勢の想像を超える物資の前に、7月には開城に追い込まれ、北条氏は滅亡の道をたどった。日本最大級の城郭をもってしても、秀吉の天下統一の流れに逆らうことはできなかった。上杉・武田の軍勢とは違い、秀吉軍は充分な兵站を確保できたことが、北条氏にとって大きな誤算となった。落城直前に伊達政宗が帰伏し、また徳川家康に後北条氏の旧領が与えられ、ここに豊臣秀吉の全国統一の事業は一応完成した。
参考文献
日本中世史事典 朝倉書店
3日でわかる戦国史 ダイヤモンド社