山上憶良
出典: Jinkawiki
・生涯
山上憶良は万葉歌人であり、斉明天皇6年(660年)に生まれたとされている。
701年、第7次遣唐使の小録に任命される。この時無位で、名は山於億良とある。 702年の遣唐使の一行に加わり、42歳で唐に渡った。唐では、中国の思想や漢文学に親しんだという。 714年、正六位下から従五位下に昇り、716年に、伯耆国(鳥取県)の国司となった。そして、721年には東宮(のちの聖武天皇)の侍講となった。726年、66歳の時に筑前(福岡県)の国司となり、ここで5年間を過ごした。この時に、太宰帥大伴旅人を迎えて、「筑紫歌壇」とも称すべき新風の文雅の交わりの中で「貧窮問答歌」をはじめ、世間を主題とする秀作を数多く詠んだ。また、「万葉集」に長歌11、短歌68、旋頭歌1、漢詩2、漢文1をとどめ、「類聚歌林」を編纂した。大伴家持、柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。
憶良の出自については、平安時代初めに京畿の諸氏の系譜を集成した「新撰姓氏録」で、右京皇別の中に「山上朝臣」は「粟田朝臣」と「同祖」とあり、山上氏は豪族粟田氏から分かれ出た小族であるとされているのが通説であるが、百済系渡来人説も唱えられている。
・山上憶良の歌
憶良の代表的な歌には、「貧窮問答歌」、「子を思ふ歌」などがある。 憶良の歌は、自然美を詠むことは少なく、「貧窮問答歌」に見られるように、現実の世の中をとらえ、人生や人間愛をテーマにしたものが多い。「貧窮問答歌」は、農民の暮らしをそのまま書き、世の中は厳しいものだと問いかけているが、その一方で、その世の中から逃れることはできない、とも言っている。憶良のこのような作品の特色は、中国の漢詩の影響もあるが、彼の優しい人間性と人生の深い体験にもとづいたものと考えられている。「貧窮問答歌」も、筑前の国司としての、憶良自身の目でとらえられた農民の姿だったと考えられる。
「貧窮問答歌」
伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言へるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
(潰れたように倒れかかった小屋の内に、地べたに直に藁を敷いて、父母は頭の方に、妻子は足の方に、私を囲み
身を寄せ合いうずくまって嘆き、うめき、食べ物が無いため、かまどには火の気が無く、甑には蜘蛛の巣がはっ
ている。ぬえ鳥のように細々と悲しみの声をもらしているところに、特別短い棒を持った里長の声が寝屋の戸口
まで来てわめき立てている。
こんなにもすべのないものか、世の中の道は。
世の中をつらく恥ずかしいと思うが、飛び立っていくこともできない、鳥ではないのだから。)
貧窮問答歌の数節であり、奈良時代の貧しい庶民の生活を歌っている。 貧窮の実態は農民の口を借りて、問う人物と対照的に語られる。人並みに生業に精を出しても報いられず、倒壊しかけた小屋の中に、衣なく食なく身を寄せ合って暖をとり、飢えにあえぐ状態であるのに、さらに里長に課役へ駆り立てられて憶良がかねて重要視してきた家族が崩壊に瀕していると述べる。 農民の生活の困窮化とそれを一層深刻にする里長の厳しい督促を描き出しており、「かくばかりすべきなものか」と現実に「すべ(方法)」を求める時、なお善政に期待しつつ地方政治の実際である困窮の構造に触れずにはいられなかったのである。里長の姿は、かつて国守としてその上司の立場にあった憶良の自省があって初めて表現できたのであろう。 長歌の問答で明らかにされた「すべなき」現実に対して憶良自身の感慨を述べたのが短歌である。「世の中をつらく恥ずかしいと思うが、飛び立っていくこともできない、鳥ではないのだから。」飢寒に身をさいなまれる貧窮から逃れられない嘆きを「うし」、「やさし」ともいうのだが、彼らを苦境に追い詰めるような立場にあったわが身の慚愧の思いをこめて憶良は表現している。
参考文献
・山上憶良 人と作品 中西進 1991 桜楓社
・憂愁と苦悩 大伴旅人・山上憶良 日本の作家2 村山出 1983 親典社
・日本の歴史 年鑑事典編集部 1995 朝日新聞社
・日本史大事典第六巻 下中弘 1994 平凡社
・日本古代中世人名辞典 平野邦雄 瀬野精一郎 2006 吉川弘文館
・日本の歴史【2】飛鳥・奈良時代 吉田孝 1999 岩波書店