山本五十六

出典: Jinkawiki

山本五十六(やまもと いそろく)1884~1943 大日本帝国海軍 26・27代連合艦隊司令長官


目次

生涯

明治17年:4月4日新潟県長岡市にて旧長岡藩士高野貞吉の6男として生まれる       当時父親が56歳の時に生まれたことから「五十六」と名付けられる

明治34年:長岡中学校卒業し、同年海軍兵学校入学

明治37年:海軍兵学校卒業。少佐候補

明治38年:装甲巡洋艦「日進」乗り組み      当時東郷平八郎率いる第一艦隊に属する      :5月27日日本海海戦(日露戦争)で左手指に2本失う

大正03年:海軍大学校に進学      :第1次世界大戦

大正04年:海軍少佐任官

大正05年:旧長岡藩家老山本家の養子となり、山本姓となる

大正07年:旧会津藩士三橋康守の三女礼子と結婚       五十六35歳、礼子23歳

大正08年:米国駐在武官任命、ハーバード大学留学

大正12年:海軍大佐任官

大正13年:霞ヶ浦航空隊教頭兼副長任命

大正14年:米国在勤日本大使館武官任命

昭和03年:8月「五十鈴」艦長、12月「赤城」艦長

昭和04年:ロンドン海軍軍縮会議全権随員、11月海軍少将任官

昭和08年:10月第一航空戦隊令長官

昭和09年:9月第2次ロンドン海軍軍縮会議日本主席代表、11月海軍中将

昭和10年:海軍航空本部長

昭和11年:11月日独防共協定締結、12月海軍次官、日独伊防共協定締結       海軍大臣米内光正と軍務局長井上成美とともに同盟の防波堤となる

昭和14年:8月連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官      :遺書となる「述志」を残す

昭和15年:11月海軍大将任官      :日独伊三国同盟締結

昭和16年:12月8日太平洋戦争

昭和17年:6月5日ミッドウェー海戦

昭和18年:4月18日ブーゲンビル上空で米軍機に攻撃され戦死(海軍甲事件)

山本の最期

結果、日本は空母4隻を失う大敗をし、五十六は「大和」に乗っていた。 またブーゲンビル島で山本の遺体が発見されるが、座席に座るそのままの格好で横たわっていた。 他の戦死者にはたくさんのウジ虫が発生していたが、山本の遺体にはあまり発生されていなかったとする記述がある。 5月21日大本営から山本五十六の戦死発表があり、6月5日に国葬が行われた。

山本の頭の切れのよさは、敵国ながらアメリカでも称賛されており、長岡が空襲で攻撃されたのも、山本の出身地であったからだともいわれている。

現存する遺品

長興寺

五十六記念館

生家

山本五十六が残した言葉

人を動かす極意

「やってみせ、いってきかせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ  

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず  

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

男の修行  

「苦しいこともあるだろう  

言い度いこともあるだろう  

不満なこともあるだろう  

腹の立つこともあるだろう  

泣き度いこともあるだろう  

これらをじっとこらえていくのが男の修行である」


国が滅びるとき(日独伊三国同盟締結に関して)

「陸軍との争いを避けたいから同盟を結んだというが、内乱では国は滅びない。   戦争では国は滅びる。   内乱を避けるために、戦争にかけるとは主客転倒もはなはだしい」


人間味

「人は神ではない。誤りをするところに人間味がある」


実年者の態度

「実年者は、いまどきの若い者などということを絶対に言うな。   なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことをいわれたはずだ。     いまどきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、   いったい日本はどうなるのだとなどと言われたものだ。  

その若者がこうして年をとったまでだ。   だから、実年者は若者が何をしたか、などというな。   何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ」

参考文献

山本五十六記念館    http://www.nagaokacci.or.jp/kankou

山本五十六ネット    http://www.ym56.net/


       


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