山本勘助
出典: Jinkawiki
甲斐国、武田信玄の軍師。三河国(愛知県)牛窪で生まれる。はじめは源助貞幸と名乗っていたと伝えられている。永正元年(1504)に大林勘左衛門の養子となり勘助と称した。軍略に秀でていたが、足や片目、さらには手の指まで不自由で、かつひどいブ男だったため、なかなか仕官に採用されず、50歳を過ぎてようやく武田信玄に仕官できたとされる。
天文22年(1553)、信玄は北信濃の武将・村上義清らを追放したが、義清は越後国(新潟県)の上杉謙信のもとへ逃げ、領土奪回を哀願した。そのため謙信が信濃へ出兵することになり、同年9月、川中島で信玄と激突することになったのだ。戦いは上杉軍に軍配があがり、北信濃の武将は旧領に戻った。だが信玄は、信濃制圧をあきらめず、弘治元年(1555)と同3年にも、両軍は川中島で衝突している。
しかし、世に川中島の戦いとして知られているのは、永禄4年(1561)の戦闘である。この年、信玄は川中島に海津城を構築した。縄張りは勘助が担当した。
これを落としてしまえと、越後から謙信が出てきた。事態を知った信玄は、2万の大軍を率いて海津城へ入った。一方の謙信は同城から2キロ離れた妻女山に1万3千で陣をしいた。最初に動いたのは武田軍だった。
信玄は1万2千の別働隊を迂回させて上杉軍の背後を突き、驚いた上杉軍が敗走してきたところを、本隊とで挟撃しようとした。これを啄木鳥の戦法と呼ぶが、この策を信玄に説いたのは勘助だった。
ところが謙信は、この動きを察知し、別働隊が妻女山に到着する前に山を下り、武田本隊8千に襲いかかった。このため武田本隊は崩れて、信玄の弟・信繁も戦死した。勘助は作戦の失敗を悟り、責任を痛感し、深く信玄に一礼すると、馬に乗って敵陣に突撃し、壮絶な最期を遂げた。享年69歳である。
参考文献
・「謀将山本勘助と武田軍団」新人物往来社
・「ふるさとの戦国武将」学研