山田長政
出典: Jinkawiki
山田長政は駿河(静岡県)の生まれで、幼いころはかごかきであったようである。江戸幕府が開かれて間もないころで、オランダやポルトガルとの貿易が盛んであった。長政は外国に憧れて、商人の船にもぐりこむ。
長政がわたったシャムの都アユタヤは、そのころ東南アジアでも一番栄えた貿易港の一つで、黄金の都と呼ばれていた。長政は日本町で貿易の仕事に成功し、日本町の頭領となる。長政は貿易で成功すると、やがてシャムのアユタヤ王朝のソンタム王に近づいた。そして、ソンタム王の信頼を得て、重く用いられるようになり、ついに王の親衛隊の長官(オプラ)となる。
1628年、王は「王位を15歳のジェッタ王子にゆずる」という遺言を残してなくなる。長政と王の重臣オヤ=カラホムは王の遺言を守り、力をあわせてジェッタ王を王位につけようとした。しかし当時のシャムの習慣では王位を継ぐものは王の弟とされていた。シャム国内では、王の弟シー=シン親王を王にしようとする一派と、ジェッタを王にしようとする長政やカラホムの一派が激しく対立した。
長政と日本人の親衛隊の活躍で、王位争いはジェッタ王子の勝利となり、シー=シン親王一派は処刑される。ところが、自ら王になろうともくろむカラホムはひそかにジェッタ王子を殺害してしまう。
残るソンタム王の血筋は、10歳のアチットスラワン王子だけとなり、カラホムは自分が王子の成人まで王位につくと申し出たが、長政はソンタム王の血筋をたてるべきだと主張し、カラホムの申し出を退ける。
参考文献
『小学歴史人物』 赤尾文夫 旺文社
『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂