岩宿遺跡
出典: Jinkawiki
群馬県みどり市(旧新田郡)笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分にある旧石器文化の遺跡。1946(昭和21)年、相沢忠洋によって関東ローム層中の石器が発見され、1949(昭和24)年の学術調査で確認され、日本旧石器文化解明の端緒となった。
1946年、切り通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋は、露出していた赤土(関東ローム層)から石器を発見。相沢忠洋はその後もその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけたが、土器が伴うことはなかった。当時、1万年以上前の火山灰でできた関東ローム層の時代には、ヒトは住んでいなかったと言われていたが、自分が確かめた事実を信じ1949年の夏には黒耀石の石槍を発見した。この発見は逸早く東京の学者に知らされ、相沢忠洋と明治大学が岩宿遺跡の発掘調査をすることになり、1949年9月11日、岩宿の丘に立った発掘調査隊は、それまで未知の地層であった関東ローム層の中から石器が出土することを確認した。その後も発掘調査が続けられそれによって、当時最も古いと考えられていた縄文時代の土器がやや離れた所で発見されたが、それらは関東ローム層より上の黒土に含まれていたので、ローム層から発見された岩宿遺跡の石器は、明らかに古いことが分かった。そして、土器を伴わず、石器だけが発見されるため、縄文時代とは違う時代のものと考えられた。また、発掘調査によって関東ローム層中に層を違えて2つの石器群が発見された。少なくとも約3万年前(岩宿Ⅰ石器文化)と約2万年前(岩宿Ⅱ石器文化)の時期があることが分かり、岩宿遺跡の時代に異なる文化の段階があり、その岩宿時代が長い時期にわたっていたことが予想できた。
岩宿遺跡の発掘調査が終了し、新聞報道がなされると、日本にも「旧石器時代」があったことを証明する大発見として公表された。それでも、日本に1万年以上も前からヒトが住んでいたことに疑問を持つ研究者もいたが、岩宿遺跡発掘の数年後にはその発見に刺激を受け、日本全国で同じ時代の遺跡が発見され、1万年をはるかに溯る岩宿(旧石器・先土器)時代の存在は疑いようのないものとなった。その後岩宿遺跡では、1970(昭和45)・71(昭和46)年、岩宿Ⅰ石器文化よりも古い石器を求めて発掘調査が行われた。その結果「珪岩製旧石器」が発見されたが、その資料の評価については問題視する意見も多く現在も論争が続いている。1979(昭和54)年、岩宿遺跡は重要な遺跡として国指定の史跡となり保存と整備が進められた。その整備事業に伴い1987(昭和62)年遺跡に隣接した部分が調査され、最初の調査と同様2つの時期の石器群が発見された。1992(平成4)年以降、岩宿遺跡の東隣りから岩宿時代の石器が発見されて、岩宿Ⅱ遺跡と名付けられた。そして2001(平成13)年には相沢忠洋が発見し、岩宿遺跡発掘調査の契機となった槍先形尖頭器と同じ石器を含む約500点の一群の石器が発見された。発掘当時、謎であった岩宿Ⅲ石器文化が岩宿にあったことを証明した石器群とも言えるだろう。また、岩宿遺跡の広がりが東側にさらに延びることも分かった。
岩宿遺跡が重要なのは、岩宿遺跡の発見と発掘が一つの遺跡が発見されたことに止まらず、日本の歴史がどこまで溯るのかという最古の歴史研究の扉を開き、縄文時代以前に日本最古の「一時代」があることを証明したからである。このことがその後の岩宿時代研究の出発点となり、日本考古学史上でも欠くことのできない大発見とされる理由である。
参考資料
石川日本史B講義の実況中継① 石川晶康 語学春秋社
日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会【編】 山川出版社
http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/iwajuku-site/iwajuku-site.html