島原·天草一揆
出典: Jinkawiki
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島原の乱
1637年、肥前(長崎県)島原・肥後(熊本県)天草地方におこったキリシタンを中心とする農民一揆(~‘38)
肥前(長崎県)島原・肥後(熊本県)天草地方はキリシタン大名有馬晴信・小西行長の旧領。藩主松倉重政(島原)・寺沢広高(天草)らは禁教・重税・厳罰で臨んだ。1637年10月、有馬・小西の牢人の指導のもとに、天草四郎時貞を首領に3万8000人の農民が島原の原城址に拠り挙兵。幕府は板倉重昌以下西国大名を動員したが、重昌が戦死したため、老中松平信綱が出馬し、オランダ船に砲撃を要請、兵糧攻めで翌年2月落城させ参加者を皆殺しにした。幕府の動員兵力12万、戦費約40万両。乱後禁教政策はいっそう強化され、‘39年鎖国体制を完成させる契機となった。 鎖国体制を完成させる契機となったことが今の日本を考える手掛かりになると思われる事項である。
島原・天草一揆とその影響
一揆勃発の報をうけた九州藩は、豊後府内目付のもとに急使を送って指図を求めた。これは二年前に出された武家諸法度において、近隣の地域でどのような事態が勃発しても江戸からの指図なしには、諸大名は出兵できなかったことによる。 この府内目付とは、1623年(元和九)年に豊後に配流された越前宰相松平忠直の動静監視のために置かれたものである。府内目付牧野伝蔵成純・林丹波守勝正は、九州諸藩に出兵を許可せず、江戸および大坂城代阿部備中守正次は、とりあえず北九州諸藩に街道筋の封鎖と武具の取り締まりを布告している11月16日、京都所司代板倉周防守重宗・大坂城代阿部備中守正次らの豊後諸藩に宛てた廻文が、岡藩から臼杵藩に到来した。この廻文では、かつてのキリシタン大名大友氏の旧領国である豊後諸藩に対して、転びキリシタンが島原一揆に参加しないように命じており、豊後諸藩にもキリシタン一揆が波及する可能性が濃厚だったことが推察されている。九州は戦国期以来、キリシタンの盛んな地域であり、そのため一揆側にも、一揆に加担するものが出てくるだろうという期待があったことから、島原・天草一揆はキリシタン一揆であるゆえに大規模な闘争になり、さらに九州全域への波及の可能性をはらんでいたと考えられている。 そのうえ九州は、徳川政権下では政権の最周辺部に位置し、寛永期においてはようやく徳川政権の浸透が緒についたばかりだった。一揆後幕府は、譜代藩の集中配置、幕府領の広汎な成立と大名預け地方式に代わる代官支配の原則の確立などによって、九州支配の進展を図っていった。
長崎奉行の常駐体制
一揆終焉後の1638年11月、馬場利重・大河内正勝が長崎奉行に任命されて一年おきに長崎に下向するように命じられ、以後長崎奉行は常駐になった。この時点で正式に老中配下の奉行となり、組織的に確立されることになった。一揆後、島原藩主松倉氏は改易され、高力氏が入封して譜代島原藩が成立した。高力氏は長崎を軍事力によって防備し、変事にあたっては九州諸大名を軍事的に指導する立場にあったといわれる。長崎奉行は、近接地域への譜代大名領の成立によって軍事的にも補強され、幕府による九州支配の要になった。
松平忠直
一五九五~一六五〇年。江戸初期の福井藩主。家康の次男結城秀康の長男。大坂の陣に出陣して戦功をあげたが、所領の加増がなかったために幕府に不満を持ち、不遜な行動が多かったので改易された。豊後府内に配流されて同地で病死。
長崎奉行
江戸幕府が長崎に置いたもので、外交・通商・司法事務を管掌。元来ポルトガル貿易を担当し、貿易を行なう時期のみ長崎に駐在したが、島原・天草一揆以後常駐するようになり、九州における幕府の出先機関としての役割を果たした。
参考・引用文献
2000年 三訂版 日本史事典 旺文社
2002年 村井早苗(著) 日本史リブレット37 キリシタン禁制と民衆の宗教 山川出版社
ハンドルネーム:マンメルモール