平城京
出典: Jinkawiki
8世紀、約70年間にわたって奈良に営まれた都城。710年(和銅3)に藤原京から遷都してきて以来784年(延暦3)長岡京に遷るまでの間であるが、藤原広嗣の乱(740)後の5年間ほどは難波を都としたため空白期間がある。奈良盆地の北端に位置しており、山背国(京都府)へ抜けると木津・淀川の水系につながり、山陽・山陰・北陸・東山道方面に連なる交通の要地であり、また南も大和川水系によって瀬戸内と連絡することができる位置を占めていた。
平城京は条坊制を伴う古代都城の代表的なものの一つであって、天皇の居住地であり、かつ政府の官庁が営まれた平城宮を京の中央北端に設定し、その中軸線に沿って南へ、幅80メートルに及ぶ朱雀大路)が設けられていた。平城宮は、南北1キロメートル、東西1.3キロメートルを計り、中心に方形の、天皇の居所である内裏を置き、その南に公的な政治・儀式の場である朝堂院を設けていた。各官庁はそれを巡る平城宮域内につくられていたのである。
平城京は朱雀大路を中心に西に右京、東に左京を設け、さらに外京と称する張り出し部分を東に設けていた。この外京には興福寺、元興寺、葛城寺などが営まれ、さらに外京の北東外には後ろに東大寺が営まれることになる。左右京、外京はそれぞれ、一辺500メートルほどの正方形の「坊」に区画され、坊はさらに一辺104メートルほどの正方形の「坪」に区画された。この坊を取り巻く道路は大路、「坪」を巡る道路は小路である。また坪の中はさらに細分化され32分の1坪などといった零細な宅地が区画されていた。これらの宅地は一般庶民や下級官人のものと思われ、月借銭(げっしゃくせん)という借金の担保として正倉院文書中に現れており、発掘調査でもかかる区画の存在が確認されている。このような小規模な宅地とは対照的に、1坪全部を占めるような貴族の宅地も存在したらしく、そのような遺跡の発掘事例も報告されている。
このような平城京に居住した人口は、ほぼ17万人前後ではないかと推定されている。このうち五位以上の貴族は100人前後であり、その家族などを含めても1000人をそれほど超えるものではない。したがって、平城京に居住する大半の人間は、中・下級の官人と平城宮などに賦役として働く雇夫、仕丁、および一般庶民であると考えてよさそうである。
ところで、平城京の経済活動は右京八条二坊と左京八条三坊に設置された東西の市(官営の市場)を中心に活発な動きを示していたが、けっして京の経済の中心は商業や手工業ではなかった。この点では平城京はギリシア、ローマの古代都市やヨーロッパの中世都市とはまったく異なった性格を帯びたものであったといえよう。少なくともその経済の中心は、平城京が天皇の居住地であり多数の官人(6000人ほどといわれる)の勤務地であったことによって、地方からの調庸物の貢納に依拠していたのである。平城京内の東西市の交易はかかる貢納経済を補うものであって、それが平城京の経済の基礎であったわけではないのである。
このような平城京の経済構造は、律令体制が動揺し、貢納体制が衰退してくるにつれて、矛盾を深めていくことになった。奈良時代の後半は平城京を中心にかなり激しいインフレが発生している。さらに政界も僧道鏡の出現等をめぐって混乱を深めたため、新しい都城の建設が要請されることとなった。この結果、計画されたのが784年(延暦3)の長岡京遷都であったといわれている。なお、平城宮跡が1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。
参考文献
1、日本史小辞典 山川出版社
2、奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp/site/shiryou.html