平安京(造成と呪)
出典: Jinkawiki
平安京は、その名において、以前のどの古代都城とも異なっている。平城京や長岡京が地名との結びつきの上に命名されたものであるのに対し、平安京は地名との結びつきが断たれている点において異質である。国王の徳の下に集った民衆や、首都の繁栄を謳歌する人々が異口同音に新京を平安京と呼んだことが名の由来であるとする説があるが、しかしそれは虚偽であろうと吉川(2002)はいう。長岡京遷都から、足かけ10年目の793(延暦12)年正月には、新京の地の視察が行われている。なぜ、幾多の困難を乗り越えて造営を進めた長岡京は、10年にも満たないうちに廃都とされようとしていたのか。平安京遷都の実態はおよそ平安などではなく、それゆえに平安を求めずにはいられなかった桓武天皇の姿が新都「平安京」という命名には込められている。彼の精神が首都の名に凝縮され、彼の王権の一側面を象徴しているのではないかと吉川(2002)は指摘する。
平安京以前の都、長岡京では、遷都を推し進めていた主要人物、中納言藤原種継が造長岡宮使として造営を指揮していたが、その彼が785(延歴4)年9月、建設現場で闇討ちにあい、翌日息を引き取るという事態が発生した。即座に捜査網が張られ、大伴氏・佐伯氏を中心とする数十名の官人が捕縛・断罪された。凶行は長岡遷都あるいは桓武その人に反感をもつ勢力が企てたものであることは明白だが、問題は彼らが皇太子早良親王をかついだとみられたことだった。早良は右京の乙訓寺に幽閉されたが、飲食が出来なくなった彼は、淡路に護送される途上で遂に死亡する。早良に代わる皇太子には安殿親王(のちの平城天皇)が選ばれた。暗殺事件にはこうして幕が引かれ、桓武は寵臣の命と引き換えに反対勢力の粛清と長男の立太子という成果を得た。 しかし事態はこれでは収まらなかった。788年5月から2年の間に夫人藤原旅子、皇太子夫人高野新笠、皇太后藤原乙牟漏と、桓武に身近な女性が次々に亡くなるという怪異が起こる。790年に淡路国に早良の墓守が置かれたのは、この異常事態を怨霊と化した早良の祟りであるとみなした桓武の意識ゆえだろう。さらに時を悪くして、この頃、全国を飢饉と疫病が襲う。「国哀あいつぎ、災変やまず」という状況が、桓武の恐怖に拍車をかけた。とどめの一撃とばかりに792年6月、皇太子安殿親王の長患いを卜ったところ、早良の祟りであるという託宣がなされる。事態は騒然となり、陳謝の使が淡路に派遣されたが、天災は依然止まない。大雨で式部省南門が倒れ、左京東南部を貫流する桂川が洪水を起こした。桓武はこの際、自ら赤目埼に赴き、洪水のさまを見たという。 『続日本紀』と、その後に出されたこの本の省略本『日本紀略』から、『続日本紀』の改竄が読み取れるという事実があると橋本(1991)は指摘する。種継暗殺事件についてこれらの書物の関連記事を比較してみると、『日本紀略』には『続日本紀』にはない内容がかなり含まれており、特に皇太子早良親王がこの事件にかかわっていること、犯人の仲間とされる多数の人物の名前やその関係などが、『日本紀略』には詳細に記載されているというのである。桓武天皇の勅命によって編纂された『続日本紀』が、本文を削除ないし改竄したのではないかという考察がこの事実からはすることができる。
さて、このような状況下で、桓武天皇は怨霊の祟り、洪水、疫病…と、様々な災厄から逃れるために、都を新たに作ろうと決意する。その際、彼は何を望んだだろうか。人は作るモノが大きければ大きいほど、或いは大事であればあるほど、それが壊れないように、様々な工夫をこらす生き物である。桓武天皇は、都をあらゆる悪疫から守ろうと、可能な限りの呪を施したとされる。以下では、現代の常識には当てはまらない都の「守り」について、二つほど例を挙げて述べたいと思う。
たとえば、「四神相応の呪」。 これは都の四方を、四頭の聖獣に守護させようとする呪法である。四頭の聖獣とは、すなわち玄武・青龍・白虎・朱雀の四神を指し、この四神はそれぞれ北・東・西・南を司るとされる。また、この四神はそれぞれ棲む場所を異にするとも云われる。陰陽五行の理によれば、都を造る際に望ましいのは、この四神が揃った立地条件を選ぶことである。すなわち、北には山があって玄武が、東には川があって青龍が、西には大きな道があって白虎が、南には大きな池があって朱雀が棲むという土地である。平安京はその立地条件に見事に合致した場所に造られている。北に船岡山、東に鴨川、西に山陰道・山陽道、南に巨椋池。さらに鬼の入る鬼門(艮:うしとら。北東)にあたる比叡山に延暦寺を置いて鬼門を封じ、北はさらに貴船・鞍馬で封じてある。 また、大内裏にはさらに強力な呪がかけられている。 大内裏の宮城門と宮城門を東西南北の線で結んでいく。すると、大内裏内の保の割合は四縦五横となる。この形状は「九字の呪法」を現しているとされる。九字の呪法とは、もともとは大陸の神仙思想の中で神山に分け入って行く行者が神仙の加護を願い、護身に誦える呪文であった。日本には密教の呪法の一つ、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行」或いは「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」というかたちで伝わっている。前者が天台密教、後者が真言密教で用いられる九字の呪法である。読み下すと、天台密教では「臨める兵(つわもの)、闘う者、皆 陣列ねて前を行く」となり、真言密教では「臨める兵、闘う者、皆 陣裂(やぶ)れて前に在り」となっている。(真言密教では、この九字で加護を願うというよりは、敵を打ち破るという意味合いが強くなる。 また、この四縦五横は、陰陽道では「朱雀、玄武、白虎、青龍(四神)、匂陣、帝台、文王(神人)、三台、玉女(星神)」と誦え、三戸と鬼(悪鬼・妖怪)を祓う呪文として用いられている。
このように、平安の都は幾重にも強い呪法で守られている。…ように思えたのであるが、ここには、実は大きな落とし穴があった、と陰陽師安倍清明は語る(岡野・夢枕、1999)。 「九字の呪法」とは、もともとは神山に入る前に行者が誦える呪文であったというのは前述した。神山に登るということはすなわち、幾重もの異層を超えて頂点に達しようとすることである。層とは、たとえば何枚か重ねた紙を想像すると解り易い。都のある層(紙)と鬼のいる層(紙)とは、通常の状態(平面)では交わることはない。しかし、何らかの呪法でもって両層が繋がれた場合には、同じ層で異層に住む者同士が顔を合わせることになる。「九字の呪法」とは、つまりはここではない別の層へと行く為の呪法である。それはすなわち悪鬼悪霊を祓う呪法ではなく、異層異界の門を開く呪法であるとも云える。で、あるならば、平安の都は大内裏を四縦五横にすることによって、異層異界へと通じる門を開けてしまったことになる。都は「四神相応の呪」や鬼門封じで平面的には守られているが、肝心の大内裏の異層間は穴だらけであるのだ。しかも平面的には封じられている為に、来てしまった鬼は都から外へは出ることは叶わない。弘仁七年(西暦816年)に大風の仕業とはいえ、羅城門が倒壊したというのも道理である。平安京の前身である長岡京などは、怨霊に疫病に洪水、まさに都全部が倒壊寸前になってしまった訳である。(そのため桓武天皇は長岡京を捨てたとされる。)羅城門が荒廃したのもこのような理由によると思われる。さらに路と路の交わる場所、辻は魔性の通り道であり、四つ辻は異界との出入り口だとされるが、そのような出入り口が平安の都には168はあるのである。悪疫から逃れるためにかけられた呪が、逆に悪疫を都に内包してしまう結果となったのは、皮肉なことである。
遥か昔、現代と千年以上の時を挟んで、未だに深い謎を抱く平安京。科学的視点から、あるいは非科学的とされる視点からこの「平安京」をみれば、未だに色褪せない平安の魅力が、我々を捕えてはなさないだろう。
橋本義彦 1991 古文書の語る日本史2 平安 筑摩書房
森谷尅久 1994 図説 京都の歴史 河出書房新社
岡野玲子(原作:夢枕獏) 1999 陰陽師 2 朱雀 白泉社
吉川真司 2002 日本の古代史5 平安京 吉川弘文館