平安仏教
出典: Jinkawiki
平安仏教
平安仏教は、最澄(比叡山に延暦寺を創建)の天台宗と、空海(高野山の金剛峯寺を中心に活躍)
の真言宗を中心とした、『大日経』『金剛頂経』などの密教、経典にもとづく仏教であり、大日
如来を本仏とした、諸仏の集会を曼荼羅として図式化したものである。
平安時代前半 仏教界に新風を吹き込んだのが、最澄と空海である。二人は、ともに唐に渡り、仏教の教義 を学び、帰国している。 奈良仏教に見られる鎮護国家の傾向を継承しながらも、国家権力から独立した宗教としての主 体性を持つものであった。また、呪術的な加持祈祷によって現世利益の実現を求める仏教であ ったため、個人的に利益を求める貴族の間でも広く受け入れられた。
平安時代半ば 摂関政治の衰退やうちつづく天災地変による社会不安がつのった。そこから、末法思想が広 まり、人々は浄土教の信仰に救いを求めるようになった。 末法思想は、仏教には仏陀入滅後、正法・像法・末法という三つの時期をへて、しだいに仏 法が衰えていくという時代観があり、日本では1052年から末法に入ると信じられていた。 浄土信仰ははやくから伝えられていたが、京都の内外のめぐり歩いて民衆に念仏を説き、阿 弥陀聖とも市聖ともよばれた、空也や、『往生要集』をあらわし、このけがれた世を厭いはなれ て娯楽浄土に往生することをねがいもとめることを説き、浄土往生のための念仏を進めた源信 らによって急速に広まっていった。
空也(903~972)
平安中期の僧。諸国を遊行し、念仏の功徳を庶民層に布教した。道路を通じ、橋を架け、寺や
堂を修理し、野原の無緑の死骸に火葬した。京都に住みついてからは、町なかで乞食し、貧民
や病人の世話をしたので、市聖と呼ばれた。民衆に広まる機緑をつくり、のちの浄土宗発生の
基盤をあたえた。
源信(942~1017) 『往生要集』
平安時代の天台宗の僧。「厭離穢土、欣求浄土」という、この世をけがれた世として厭い、極
楽浄土に往生することを願うことのための念仏を説き、当時の人々に浄土信仰を広めた。その
念仏は、まだ、観想念仏が中心であったが、のちの法然の信仰成立に大きな影響をあたえた。
≪参考文献≫
井上 暉堂 著 「仏教のことがよくわかる本」 明日香出版社 2006
日外アソシエーツ 編集 「平安時代」を知る本 <1>政治・宗教ー貴族社会の爛熟と平安仏教の成立
日外アソシエーツ 2010
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