庚午農民戦争
出典: Jinkawiki
1894年、朝鮮半島南西部の全羅道で発生した農民蜂起にはじまる東学信徒を利用した大規模な農民反乱である。発生の起源は、全羅道古阜郡守である趙秉甲の暴政に対する農民の怒りの爆発である。農民軍のリーダーである全琫準、金開南、孫化中らは宗教組織である東学を利用して勢力を拡大していった。このことから、この反乱のことを別名、東学党の乱、東学農民戦争と呼んだりもする。また、スローガンとして、暴圧政治を取り除いて民を救済する「除暴救民」、国を正して民を安らかにする「輔国安民」、西洋や日本の勢力を排除する「斥洋斥倭」などを掲げており、庚午農民戦争は近代民族国家を樹立しようとした反帝反封建運動としても韓国で評価されている。
庚午農民戦争は大きく四段階に分けることができる。
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第一段階
全羅道古阜郡守である趙秉甲は、萬石洑という貯水池を作って農民から水税を徴収したり、他にも様々な名目で税金を取り立てて私腹を肥やしていた。それに対する農民たちの怨声が高まったことで趙秉甲は一度、益山郡守に転任させられた。しかし趙秉甲は請託によって再び古阜郡守としてもどってきた。これに農民たちは激怒し、全琫準を指導者とする一千あまりの農民軍は郡庁を襲撃した。農民軍は監獄を壊して囚人を釈放したり武器庫を襲って武器を奪ったりするが、その後ひとまず農民は解散した。農民たちが郡官衙を襲撃してから、農民が新任の古阜郡守朴源明の説得で解散するまでのこの段階を「古阜民乱」と呼ぶ。
第二段階
「古阜民乱」の報告を受けた政府は李容泰を按覈使として現地に派遣した。李容泰は東学の教徒が民乱に大きく関わった事実を調査過程で知った。そこで、東学教徒逮捕令を発令、家を焼いたり当事者が不在の場合は妻子を捕えて殺害などもした。一方で、全琫準は古阜民乱を引き起こす要因となった農民収奪が、自分たちの地域だけの問題ではなく、全国的な問題であると知った。その後、近隣の同志らに「倡義檄文」を回して決起を促した。
李容泰の首謀者捜索に力を注いだ強硬な弾圧に憤怒した農民たちと、一度目の民乱とは異なる蜂起を試みようとした全琫準、彼に賛同した茂長の孫化中、泰仁の金開南らが第二次の蜂起を起こした。これが「茂長蜂起」である。農民軍は萬石洑を破壊し、黄土峴戦闘と長城郡黄龍村戦闘で政府軍を相手に勝利した。余勢を駆って全羅道首府の全州城を攻撃し、無血入城した。
ここで政府は農民軍を鎮圧するため、清国に出兵要請をした。それを受けて清国は天津条約に基づいて日本にその事実を告げた。第二次伊藤博文内閣は、衆議院を解散、日本公使館および現地の居留民保護を口実として軍隊を朝鮮に一方的に派遣した。六月下旬までには八千名あまりの日本軍が朝鮮に派遣された。こうした戦況下で農民軍は、六月十一日に政府と全州和約を取り付けて解散した。
第三段階
政府と結んだ全州和約によって、農民軍は自ら全羅道五十三か所の郡県に執鋼所を設置。「弊政改革案十二カ条」に則って改革を実施した。一方で、日本軍は朝鮮王宮を占領、国王を人質に親日政権を誕生させたあと、豊島沖海戦に始まる日清戦争を繰り広げることとなる(豊島沖海戦の時点では日本は宣戦布告をしていない)。
第四段階
農民軍が解散したのにも関わらず、清国と日本の軍隊が朝鮮の領土で戦争を繰り広げたので、農民たちは外国軍の撤収の声を掲げて蜂起した。再蜂起した農民軍は論山をたどって公州に進撃し、牛金峠で日本軍・政府軍と戦火を交えた。しかし、日本軍と政府軍は日本の新鋭武器を装備しており、農民軍の敵う相手ではなかった。これをもって庚午農民戦争は終わりを告げることとなる。
性格
以上のように展開された庚午農民戦争は、「弊政改革案十二カ条」から蜂起の性格や目標がうかがえる。この十二カ条の中身としては、封建的身分制度の撤廃・腐敗官僚の厳罰・官吏採用時の能力優先・名目のない雑税廃止・高利貸しの禁止・土地を均等に耕作する分作の規定など、反封建的性格を持っていた。また、反民族行為に対する厳罰条項や日本軍と清国軍を自国から追い出そうとして再蜂起した 事実から、反外国勢力(反帝国主義)的性格もみてとれる。つまり、庚午農民戦争の目標は、外部勢力を排除し封建的暴圧政治を退けて、人々が安らかに暮らせる社会をつくることだった。
参考文献
金両基 他 2007『韓国の歴史を知るための66章』 明石書店
日中韓3国共通歴史教材委員会 2006『未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』 高文研
編集:sunfl