廃藩置県
出典: Jinkawiki
内容
1871年(明治4)7月、全国の藩を廃して県を置き、中央集権的統一国家を樹立した政治変革。版籍奉還後、政府は中央集権化政策を積極的に推進したが、とくに70年秋から71年春にかけては、岩倉具視の「建国策」に示される体系的な中央集権化構想、「藩制」「徴兵規則」「新律綱領」「戸籍法」などの諸法令にみられる集権的、統一的施政が展開された。さらに岩倉勅使や大久保利通、木戸孝允らの鹿児島・山口訪問の結果、両藩および土佐藩の中央政府への協力態勢が確定し、3藩の献兵約1万の東京集結も実現することになった。一方、藩体制の解体の度合いも深刻化し、藩の維持ができず、個別的に廃藩を願い出て許可されるもの、藩の形式は維持しても実質的には廃藩同様の状態に置かれるものなどが広範に現れ、藩体制崩壊の傾向は顕著となった。これらのなかで、信州や豊後日田(ぶんごひた)地方における百姓一揆、草莽(そうもう)・下級士族・不平公卿(くぎょう)などによる反政府陰謀が進行し、71年正月には参議広沢真臣(ひろさわさねおみ)暗殺事件が発生した。政府は、これらに対しては武力による強圧政策を断行した。71年6月、鹿児島・山口・高知三藩連合が推進力となり政府首脳人事の改変が行われ、西郷隆盛、木戸孝允2人が参議となって政体改革にあたることになった。この政体改革の動きとは別に、7月初旬に廃藩置県断行の合意が西郷、木戸ら在朝鹿児島・山口両藩出身者の間に成立し、隠密のうちに準備が進められ、三条実美(さねとみ)、岩倉具視もこれに同意した。7月14日在京知藩事を召集して廃藩置県の詔を発し、在国知藩事にも廃藩を指令した。同日板垣退助、大隈重信を参議に加え、鹿児島・山口・高知・佐賀4藩の協力態勢を固めた。廃藩の結果、全国は3府302県1使となった。廃藩によって免職された知藩事は、家禄と華族身分を保証されて東京に移住し、藩債は政府に肩代りされた。
一方、1871年7、8月には太政官体制の大改革が行われた。これにより、神祇官は廃止され、太政官は正院、左院、右院の三院制となった。正院には太政大臣、左右大臣(納言)、参議の三職が置かれ、天皇親臨のもとに国家の最高意志を決定した。左院は議長、議員(議官)により諸法案を審議し、右院は各省の長、次官から構成されて省務関係法案の起草と議事を行った。また、太政官のもとに外務、大蔵、兵部、工部、司法、文部、宮内、神祇の8省が置かれた。さらに、従前の官位相当を廃し、官等を15とし、三等以上を勅任官、七等以上を奏任官、八等以下を判任官とし、武官は四等以上を勅任官とした。これらの改革によって、明治太政官体制は確立した。この体制は、天皇の太政官親臨という形による天皇親政の理念、太政官正院による天皇輔弼(ほひつ)の独占、立法・行政・司法の三権未分離とその太政官正院への一元的統轄、宮中・府中の未分離などにその主要な特徴があり、これらの特徴はその後も基本的な変化はない。また地方制度では、同年10月の「府県官制」では府および県に知事以下を置いたが、翌11月には全国諸県の大統合が行われて3府72県1使となり、さらに同月の「県治条例」によって県には県令以下が置かれ、県庁には庶務、聴訟(ちょうしょう)、租税、出納の4課が設けられて事務を分掌することになった。これによって、その後の県治の基礎がつくられたのである。
参考文献
1、日本史小辞典 山川出版社
2、日本史B用語集 山川出版社
3、詳説日本史 山川出版社
4、日本史の全貌 青春出版