後醍醐天皇

出典: Jinkawiki

在位1288~1339年。名は尊治。建武の新政の中心人物。大覚寺統。即位ののちに父後宇多上皇の院政を廃止し、記録所を再興するなど天皇親政を目指した。鎌倉幕府打倒を計画した正中・元弘の変で隠岐に配流されたが、足利尊氏・新田義貞らの協力により、幕府を倒した。復古的天皇親政を理想とする建武の新政を実施したが、武士層の不満をかって失敗。不満の先頭に立つ尊氏と対立して、吉野に皇居を移し南北朝並立時代を招き、南朝側不振の中に病没した。

*正中・元弘の変

・正中の変 朝政の実績を上げていくにつれ、天皇独裁による日本の全国支配を目指す後醍醐帝にとって、国を中心に大きな勢力を誇り、天皇の即位にすら大きな発言権を持つ幕府との対立は不可避のものとなっていった。 帝は無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、宴会にかこつけて日野俊基、資基、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語い、討幕の計画を練った。正中1年(1324)、無礼講に参加していた武士の一人、土岐頼員の寝返りによって討幕計画が発覚、計画の中心メンバーであった日野俊基、資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」という。 当然鎌倉幕府の捜査の手は真の首謀者たる後醍醐帝にも伸びてはきたが、帝は弁明のために鎌倉に万里小路宣房を勅使として遣わし、幕府の慰撫に努めた。天皇が武家に告文を出すのは前代未聞の出来事である。朝廷と同じく弱体化の方向にあった幕府は、ここで帝と全面対決の姿勢を打ち出す事は得策ではないと判断、帝の弁明を受け入れて、日野資基を佐渡に配流するのみの穏便な処置にとどめた。

・元弘の変 息子の護良親王を比叡山延暦寺の座主に据え、東大寺、興福寺との連携を強めたりと、僧兵達を戦力として動員出来るように画策した。更に律僧文観を交渉者として、河内の土豪楠木正成、幕府要人の伊賀兼光らの味方引き入れに成功する。また、米価、酒価の公定、関所の廃止を行って商工業者の支持を得、日野俊基を各地に派遣して悪党海賊、反北条派の武士の調略を行った。こうして討幕に向けて周到な計画が練られたが、元弘1年(1331)、未だ幕府の実力を恐れる帝の側近、吉田定房によって幕府に密告され、計画は再び瓦解した。吉田定房は、事が後戻り出来ないほど深入りする前に計画を発覚させて、正中の変の時のような穏便な処置を幕府に期待したらしい。しかし幕府は今回はこれを許さず、日野俊基らを捕縛、鎌倉へ移送、次に帝の処置を検討し始めた。 追いつめられた後醍醐帝は笠置にて挙兵、楠木正成も河内赤坂城にてこれに呼応した。しかし頼みの延暦寺が幕府側についてしまい護良親王らは比叡山を脱出する羽目に、楠木の赤坂城も幕府軍の攻勢の前に落城し、笠置の帝も捕らえられてしまう。これを「元弘の変」と呼ぶ。

<参考文献> 日本史用語集   全国歴史教育研究協議会編


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