徳川慶喜
出典: Jinkawiki
徳川慶喜[1837・天保8年~1847・弘化4年]
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徳川慶喜
1837年(天保8年)9月29日、御三家の1つである水戸家9代藩主・徳川斉昭と京都の有栖川宮家から嫁いできた正室・登美宮吉子(とみのみやよしこ)の間の7男として生まれる。
幼名は七郎麿(しちろうまろ)。これは長男の鶴千代(のちの水戸藩主慶篤)を別にして、兄たちが次郎麿、三郎麿、四郎麿と数字をつけて命名された慣例による。御三家では、継嗣だけが徳川を名乗り、ほかの子は松平と称することになっていたため、慶喜は松平七郎麿と呼ばれていた。
父の斉昭には子供が多く、男子が22人、女子が15人の計37人いたが、そのうち成人したのは男子12人、女子6人の計18人である。成人することが難しかったこの時代に七郎麿は生存競争をくぐり抜け、のちに15代将軍となる。
名前
8、9歳のころ,父斉昭から名を昭致(あきむね),字を子邦(しほう),号興山(こうざん)を与えられた。名の昭致は,一橋家相続の時までの名乗りであり、別に経綸堂(けいりんどう)と号し,後年静岡隠棲時代には一堂(いちどう)とも号した。一橋家相続後,徳川」を姓とし,名を12代将軍家慶の一字「慶」を賜り「慶喜(よしのぶ)」と改名。
愛称とは言えないが,豚肉を好んで食べたところから「豚一(とんいち)様」と呼ばれた。また、その性格から「剛情(ごうじょう)公」,行動から「二心(にしん)どの」とも陰口された。
幼少期
慶喜は、生まれた翌年の天保9年4月水戸に移され,弘化4年(1847),一橋家相続の内命を受けて出府するまでのおよそ9年間,水戸の地で養育された。当時大名の子は江戸で育てられるのが普通だったが、江戸は、奢侈(しゃし=ぜいたく),頽廃(たいはい=風紀の乱れ),賄賂横行、武士は泰平に慣れ柔弱(にゅうじゃく)にして,財力のある商人の前に頭を垂れる有様であったため、父斉昭は江戸の華美な風俗が身にしむことを防いで文武の十分な修業をつませ,藩内を自由に歩きまわらせることによって下情に通じさせたいとし、質実剛健な水戸での厳しいしつけを望み、慶喜を水戸へと送った。
斉昭の,七郎麿傅役井上甚三郎宛の書に「庶子は養子に遣わすことがあるのだから,文武共にしっかり学ばせよ。柔弱にして文武の心得がなければ,水戸家の恥となる。水術,弓術,馬術の三科はおろそかにするな。とくに馬術は馬場だけでは用に立たない。山坂を乗りまわすことができるよう,度々好文亭や仙坡のあたりを廻れ。湊などへも手軽に附の者どもと遠馬に出るようにするがよい。但し子供始め腰弁当とすること」とあることからも分かる。
(水戸家での生活)
•起床後ただちに四書五経の復読。近侍の士が髪を結いながらその間違いを正す。
•終わって朝食。
•四つ時(午前10時)まで習字。
•それより開館間もない弘道館(天保12年 仮開館)に登館して教官より四書五経の素読の口授を受け,さらに館中文武の諸局に臨んで諸生らの修業のさまを見学。 •正午に自室に帰り昼食。
•午後は習字,復読。
•夕方になってようやく遊びの時間が与えられる 。
•遊びは、「軍(いくさ)よ火事よ」と勇ましい遊びに熱中した。かなりの乱暴でいたずら者であった。
水戸家
徳川御三家の1つである水戸家は慶長14年(1609年)、徳川家康の第11子徳川頼房が水戸25万石に封じられたのを始まりとする。領地は尾張藩61万石,和歌山藩55万石、水戸藩は35万石であり、また藩主の官位官職は尾張,和歌山両藩とも従二位権大納言を極官とするが、水戸藩は従三位権中納言を極官とする。同じ御三家とはいえ,領地・官位とも水戸藩は一段低かった。
また将軍の世子(あとつぎ)がいない場合、将軍候補者は尾張・紀伊から迎え入れるのが常道であり、水戸家から将軍が迎え入れられることはなかった。その後8代将軍吉宗のときに田安家、一橋家、続いて9代将軍家重の時清水家という「御三卿」が創設された。目的は、将軍家の支えを強固にし、さらには将軍の相続紛争を未然に防ぐためであった。そのため慶喜のいた水戸家は「天下の副将軍」と呼ばれ、あくまで副となり、将軍を出す機会は御三卿の出現により、いままで以上に縁遠くなってしまった。
一橋徳川家へ
当時の一橋家にとって,身近で血統的にもふさわしい人物が,三家・三卿の中で慶喜以外におらず、また慶喜が幼少のころから利発だという噂は広く流布しており、それは時の将軍家慶の耳にも届いていた。
家慶の後継ぎには家祥(家定)がいたが生来病弱であり、将軍としての将来を危惧されていた。そこで、慶喜に白羽の矢が立ったのである。家慶にとって慶喜は甥(家慶正夫人と斉昭正妻=慶喜実母は、共に有栖川宮家出身の実の姉妹)であり、また、時の筆頭老中阿部正弘の賛意があったという。 そして弘化4年10月5日、慶喜は230人の従者を従え、江戸城に入り、将軍家慶に謁見し、儀式を終えて一橋邸に入った。
その後、弘化4年12月1日に元服し、将軍家慶の1字をもらって名を慶喜と改め、徳川慶喜と名乗ることとなった。従三位(じゅさんみ)・左近衛中将に任ぜられ、刑部卿を称した。この時慶喜11歳であった。
将軍継嗣問題
1853年(嘉永6年)将軍の跡継ぎ候補に慶喜の名前が取り立たされるようになる。その後、この問題はにわかに煮詰まり、「条約勅許」問題(日米修好通商条約の勅許をめぐる政治的紛議)とないまぜになって、嘉永6年より安政5年(1858年)にかけ大政争と発展する。
当時将軍家定の継嗣候補者に挙げられていたのは、家定の従兄弟にあたる紀州和歌山藩主の徳川慶福(よしとみ)と、一橋家の慶喜であった。そこで、慶喜を推す「一橋派」の阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬、越前福井藩主松永慶永、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊重、慶喜の父斉昭らと、慶福を推す「南紀派」の井伊直弼、家定の生母本寿院らが対立した。
最終的に一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は徳川慶福と決した。
15代将軍へ
1866年(慶応2年)7月20日、14代将軍家茂が亡くなったが、この時、家茂には子がなく、継嗣は決まっていなかった。各方面から慶喜に将軍職後継をすすめる声があがったが、慶喜はなかなか受け入れようとしなかった。この時幕府の権力は地に落ちており、将軍になることがいかに大変か慶喜は知っていた。しかし、徳川一門には慶喜の他に有力な将軍候補者がいなかった。御三卿である田安家の田安亀之助はわずか4歳で,前尾張藩主徳川慶勝も候補にはあがったが,すでに隠居の身でふさわしくないと判断された。慶喜は,まず慶応2年8月20日徳川本家の相続のみ承諾し,その後12月5日将軍宣下を受け征夷大将軍に就任した。
大政奉還
外交問題をめぐって政局は混乱し、社会は激動した。国の危機的状況が深まるなかで、外交方針が朝廷と幕府とで食い違いをみせるなどのことが問題視され、強力な国家を創るためには、政権が一元化されなければならないと認識されるようになった。
そして、将軍就任の翌年の慶応3年(1867年)慶喜は朝廷に「大政奉還」を奏上した。しかし、それは言葉通り政権を放棄するという意味ではなく、いったん政権を朝廷に返上したのち、議会制などを核とする近代的な行政府を新たに構成し、そのトップに再び慶喜が座るという構想であった。これは坂本竜馬の「船中八策」を原案に、幕僚の西周らが修正を加えて練られた策であった。「倒幕の密勅」を得て、今まさに事を起こそうとしていた薩長は攻める名目を失った。
だが、機先を制された岩倉・大久保らは、さらに「王政復古のクーデター」という形で応酬した。政権を譲り渡しても、朝廷に国を治める力はないと慶喜は確信していたのだが、読みは間違っていた。明治天皇の名のもとに、幕府・朝廷の旧制度が廃され、新政府の樹立が発表され、そこには慶喜の入る余地はなかった。
戊辰戦争
慶応4年1月3日,鳥羽および伏見で新政府の薩長軍と旧幕府軍とが激突,戊辰戦争の火蓋がきって落とされた。
慶喜の率いる旧幕府軍は約1万5000、対する新政府軍は約5000。数においては圧倒的に旧幕府軍が有利であったが、まさかの敗北を喫する。大坂城へ退却した兵士らは君主とともに討ち死にする覚悟であり、まだ反撃に出る余地も残っていた。だが、慶喜は夜陰に紛れ、大坂湾に停泊していた軍艦に密かに乗り込み江戸へ引き揚げてしまった。
その後
慶応4年2月松平春嶽への嘆願書で恭順を決めた慶喜は戦後処理のため、勝海舟を陸軍総裁に、大久保忠寛を会計総裁に任命した。これが慶喜の最後の仕事となり、265年続いた徳川幕府の歴史は幕を閉じた。2月12日慶喜は江戸城を出て、上野東叡山寛永寺の大慈院に移り、約2か月ほどの間を「朝敵慶喜」として謹慎の意を表した。そして、4月11日江戸開城の日、大慈院を出て故郷の水戸へ向かった。それから3ヶ月間水戸ですごし、7月には駿府の宝台院に移り、謹慎生活を続けた。
この間、勝海舟・大久保忠寛らの努力により、慶喜の生命は保障され、江戸城は無血開城された。慶喜の長い謹慎生活は1869年(明治2年)9月28日箱館戦争終結後であり、この謹慎解除をもって慶喜は歴史の舞台から姿を消した。
その後、慶喜は狩猟やカメラ、刺繍、油絵、碁、将棋など数えればきりがないほどの趣味に明け暮れて過ごし、77歳でこの世を去った。
参考
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/07_jiten/tokugawa/tokugawa.htm(茨城県立歴史館HP)
『徳川慶喜の生涯 最後の将軍と幕末動乱』 著:中江克己 太陽企画出版
『徳川慶喜と幕臣たちの履歴書』 著:入江康範 ダイヤモンド社
『15代将軍 徳川慶喜』 監修:大石慎三郎 日本放送出版協会