教育委員会公選制

出典: Jinkawiki

公選制教育委員会

 戦後の教育の出発は、悲惨な戦争とそれに加担した戦前教育への深い反省のなかでつくり出されていった。文部省自身、戦後行政教育改革の起点として、戦前の教育行政の姿をつぎのとおり批判・反省している。「この制度は、地方の実情に即する教育の発達を困難ならしめるとともに、教育者の創意と工夫とを阻害し、ために教育は画一的形式的にながれざるえを得なかった。又、この制度は、教育行政が教育内容の面まで立ち入った干渉をなすことを可能にし、ついには、時代の政治力に服して、極端な国家主義的イデオロギーによる教育、思想、学問の統制さえ容易に至らしめた制度であった。さらに、地方教育行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経緯と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきたのである。このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困難であった。」  戦後の教育行政改革は憲法と一体のものとして進められ、憲法の原理は教育行政改革の前提とされた。第一は、国民主権への転換であり、「それに反する一切の憲法。法令及び詔勅を排除する」ことが宣言され、教育立法の法律主義が確認された。第二は、地方自治原則の確立であり、教育は地方自治体の事務とされた。第三は、国民の基本的人権の尊重がうたわれ、その一つとして国民の「教育を受ける権利」が規定された。その憲法をうけ「準憲法的」な教育法―「教育根本法」として規定されたのが教育基本法であった。教育基本法10条は、戦前の教育が官僚行政権力などに支配されていったことを批判し、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきこと」をうたい、教育の自主性と直接責任制の原理を規定している。  文部省筋では、当時、この教育の自主性と直接責任制の原理を解説して、「直接にというのいは、国民の意思と教育が直結してということである。国民の意思と教育との間にいかなる介入もしてはならないもである。この国民の意思が教育と直結するためには、現実的な一般政治上の意思とは別に国民の教育に対する意思が表明され、それが教育の上に反映するような組織が立てられる必要があると思う。このような組織として現在米国において行われる教育委員会制度は、我が国においてもこれを採用する価値があると思われる」と述べている。  こうして、戦後の新しい教育行政は、国民主権―民衆統制、地方自治、教育行政の自主性確保―一般行政からの独立、といった諸原則を確立し、その制度的保障として公選制教育委員会制度をつくりだした。(yagi-zyunzou)

参考文献 「教育委員準公選の記録」編著 中野区 総合労働研究所 「中野区教育委員準公選制実施の経緯」長田三男


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