斎藤 喜博
出典: Jinkawiki
さいとう きはく。明治44年(1911)3月20日、群馬県佐波郡芝根村川井生まれ。
日本の教育者。処女作は「教室愛」。
父親は道蔵、母親はけむ、兄は英一、姉はぶん、つる、弟は幹夫、妹にヒデ子という家族構成であった。道蔵の職業は農業で職人気質であり、気分屋で世間を狭くして生きていた。その気質が息子の喜博にも受け継がれ、生涯をとおし孤独で筋の通った生き方をした。また、祖父にあたる霞城が喜博の自慢であり「霞城先生に顔や姿がそっくりだ。」と言われて育ったという。霞城は絵をかいたり著述をしていた。喜博は父親の職人気質と祖父の芸術気質を受け継いでいた。
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幼少期
気弱で貧弱で「坊さんになったらよい」と言われるくらいおとなしい子どもであった。一人で遊ぶ、孤独な少年で遊びの舞台や道具は「自然」そのものであり、利根川や鳥川の河原が主な遊び場所だった。
群馬師範学校
大正14年(1925)5月に入学。喜博は5年制の第1回生だった。喜博がなぜ師範学校を受験したのか喜博は次のように述べている。
「私は小学校1年生のとき、担任の先生に将来の職業をきかれたとき、『先生』と答えたのをよく覚えている。それからずっと先生になろうと考えていた。これは兄や姉が教師をしていたということが大きく影響していたのかもしれない。また父親が『教師がよい』と口ぐせのようにいっていたことの影響もあったのかもしれない。」(「可能性に生きる」) しかし、師範学校は喜博にとって居心地の良い場所ではなかった。「特長ある個性的な人間は師範学校では育たなかった」と喜博は語っている。喜博が考えた教師教育は師範学校のそれとは全く違うものだった。そんな師範学校の生活の中で金子先生という英語の教師に出会う。喜博は金子先生の教室でのしぐさや服装、話、人間性に影響を受けた。
斎藤喜博に影響を与えた人物
喜博は群馬師範を卒業し、佐波郡玉村尋常高等小学校に赴任する。そこで喜博は教育実践者としての基本を当時校長であった宮川静一郎から習得することになる。この人物はのちに喜博が「島村小学校」で行った校長の仕事の模範を示しているようなものだった。 喜博に影響を与えた人物としてもう一人、歌人の土屋文明がいる。喜博はこの人物から作家姿勢、生き方、物の見方を学んだ。
島小学校
喜博は11年間島小学校で校長を務めた。児童数364名、職員は校長を含めて15名の小さな学校だった。喜博がこの小学校で着手した方法論は大きく3つに分けられる。第一に村長や教育委員会の圧迫を排除したり、校長を「さん」づけで呼ぶ運動をするといった、職員の解放という地ならし作業を行うといったこと。二つ目に村内にサークルをつくって地域全体の学習を推進するということ。第三に赴任早々から「授業」に手をつけていること。この3つに分けられる。
C.R.ロジャース
現代カウンセリングの祖であり、日本のカウンセリング界に最も大きな影響を与えた人物。(1902~1987) 北海道教育大旭川校教授であった若原直樹氏は喜博の授業はロジャースのめざしているものと似ていることに気が付いた。喜博の国語の一斉授業でロジャースの基本原理が実現していると若原氏はいう。
例としてロジャースが心理療法で重要としている「一致」が挙げられる。ここでの「一致」とは、セラピストが仮面や役割や見せかけなどから離れて、ありのままの自分であるということである。何を感じているのかわからない相手と一緒にいるとき、用心深くなったり、慎重になる傾向がある。こうした関係においては防衛されたままで意味ある学習や変化は生じない。喜博の「真の自己であること」はロジャースの基本原理の一つである、「一致」に相当する。
参考文献
「斎藤喜博―その仕事と生き方―」笠原肇 著
「斎藤喜博研究の現在」 横須賀薫 編
「ロジャーズが語る自己実現の道」 C.R.ロジャーズ著 諸富祥彦/末武康弘/保坂亨共訳
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