新井白石
出典: Jinkawiki
白石は、小さいころから大人の本を読むなど、天才的な素質があった。父の主君である上総(千葉県)久留里藩の城主、土屋利直は、白石の才能をもっと伸ばそうと、9歳の白石に昼は3000字、夜は1000字の漢字を書いてくるように命じる。
白石が21歳のとき、父正済が久留里藩を離れて浪人する。生活は苦しくなり、白石は寺子屋を開いて生活を支えた。白石は28歳のとき、学者の木下順庵の弟子となり、「木門十哲」といって10人の優秀な弟子の、しかも、その第一に数えられる。そして36歳のとき、順庵のすすめで学者として甲府(山梨県)藩主徳川綱豊につかえる。
綱豊が6代将軍家宣になると、白石は幕臣にとりたてられ、家宣の政治の手助けをした。白石はまず、5代将軍綱吉のときのいきすぎた政治を正すため、生類憐みの令を廃止する。そして、この法に罰せられていた8000人あまりの人を許した。
彼は、経済の安定をはかるため、貨幣の質をよくして物価の値上がりをふせいだり、中国・オランダとの貿易の額を制限して、金や銀が外国に流れ出るのを防止した。また朝鮮の使者をむかえる費用が莫大だったので、その費用を最小限にし、財政のたてなおしをはかる。この、白石が行った政治を、そのときの年号をとって「正徳の治」という。
家宣が死に、8代将軍吉宗の時代になると、白石は政治から遠ざけられてしまう。白石は再び学者としての生活に戻り、『西洋紀聞』・『折りたく柴の記』など、多くの本を書く。白石は、それまでの政治のあやまりをただし、将軍の権力を高め、よりよい政治を行うよう力を尽くした学者政治家であった。学問の幅の広さ、するどさ、さきがけとしての業績などによって近世でも指折りの学者と評価されている。
参考文献
『小学歴史人物』 赤尾文夫 旺文社
『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂