新撰組2

出典: Jinkawiki

新撰組

 幕末期、江戸幕府が組織した浪士の武力団体。新撰組とも書く。幕府は、浪人の懐柔統制のため浪士組(248人)を組織し、上洛する将軍徳川家茂の警衛として1863年(文久3)2月に江戸を出発させた。しかし上洛後、指導者の清河八郎が尊攘派と気脈を通じたため、幕府は彼らを東帰させた。このとき近藤勇、芹沢鴨らは京に残留、京都守護職松平容保の支配下に属し新選組を結成し、京の治安維持に努めた。芹沢は近藤によって同年9月18日に暗殺され、以後近藤(組長)、土方歳三(副長)が実権を握り、尊攘・討幕派の弾圧に活躍した。64年(元治1)6月5日の池田屋事件は有名である。烈風の日に京都御所の上手に火を放ち、天機伺候のため尹宮、松平容保が参内するのを待ってこれを襲撃し、朝廷を長州に迎えようという尊攘派の大陰謀があったといい、これを察知した新選組が、三条小橋の旅館を襲撃して手柄をたてた事件である。このころの隊士は50人ぐらいで、65年(慶応1)ころの最盛期には総勢約200人であった。  池田屋事件以後、禁門の変、石蔵屋事件、膳所藩の獄、長州藩訊問使についての広島出張、三条橋高札事件などに活躍した。1864年11月に新選組に参加した伊東甲子太郎一派は、67年3月に新選組を分離し高台寺党を結成した。しかし、11月に伊東は新選組に暗殺され高台寺党は解散した。  1868年1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは副長土方が指揮をとったが、幕軍とともに新選組も敗れた。残った隊士は江戸に帰り、3月1日に甲陽鎮撫隊を結成し近藤はその隊長となった。5日に甲州(山梨県)勝沼で官軍と戦ったが敗れ、その後、下総流山で近藤は捕らわれ、4月25日武蔵板橋で斬首された。近藤は、市中見廻りは本来の任務ではなく、外夷攘払の先駆けとなる考えをもっていたが、幕府には攘夷の意志がなく、幕末の尊攘派と公武合体派の渦巻く争いのなかにあって、初志にもかかわらず洛中の警備に終始した。土方は、宇都宮、会津若松と転戦し、1869年5月11日に箱館で戦死した。


隊長

局長:近藤勇

 農家・宮川久次郎の三男として生まれたが、天然理心流三代目近藤周斎にその人柄と腕を見込まれて、養子に望まれたのが15歳の時。以来、江戸小石川の道場「試衛館」にて剣を学び、やがては若先生として剣を教える立場になっていった。文久元年(1861)8月、26歳の時に天然理心流四代目を襲名、名実ともに理心流宗家を継いだ。文久3年(1863)2月、28歳の時に試衛館一党で浪士隊に応募、京に上り清河八郎と分裂した後、会津藩の元で新選組を結成。局長を勤める。慶応4年下総流山で、新政府軍に投降。板橋にて斬首。墓は三鷹市竜源寺、他。


副長:土方歳三

   三は石田村の豪農の末っ子として生まれた。母の体内にいる時に父を亡くし、5才の時に母を亡くしたため、年の離れた兄夫妻に育てられた。10才の時と16才の時に、上野に奉公に  出されたがいずれも長く続いてはいない。近藤勇とは切っても切れぬ仲で、ずっと一緒だった。二人の仲の良さと信頼関係の絆の強さについては、多くの証言が残っている。新選組時代は、本来の優しい心を自分の中に閉じこめて冷たい面を被り続けた。甘い顔をしていては新選組は成り立たない。近藤を檜舞台にあげ、幕府に忠義を尽くすため、心を鬼にして、仕事にも隊士にも厳しく当たった。新選組崩壊後は、彼もやっと本来の自分の姿に戻れ、多摩にいた頃の気さくな気持ちで人に接することが出来たようだ。兵士はみな、赤子が母を慕うように彼を慕ったという。勇が処刑された後、歳三は幕府軍の幹部として北へ転戦して行く。最後は箱館五稜郭まで行き、徹底抗戦した。やがて、幕府軍の最後の砦五稜郭も降伏する気配が濃くなったとき、一人敵地に飛び込んで、腹部に銃弾を受け、戦死した。


一番隊組長:沖田総司

 陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれたが、8才くらいの時に、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣技は天才的で、十代のうちに免許皆伝に達し、文久元年(1861)には塾頭になっている。近藤を慕い、京都では新選組の一番隊を率いて活躍したが、労咳(結核)を患い、若くして死んだ。池田屋事件の際に喀血したと言われるが、はっきりしない。慶応3年(1867)の終わり頃には病状が悪化し、新選組が江戸に引き上げた後は、一人隠れるようにして療養生活に入った。場所は、千駄ヶ谷の植木屋の離れとも、新選組と親交のあった幕府御典医松本良順邸の中とも言われる。一月前の近藤の処刑を知らされぬまま、総司は5月30日、死亡した。


二番隊組長:永倉新八

 全てに名を連ね、沖田が倒れた後の新撰組を剣で支え続けた。鳥羽伏見の戦いでは決死隊として獅子奮迅の活躍を見せ、近藤の代わりに指揮を執った土方の右腕として二番隊を率いて血刀を振るった。数少ない新撰組生き残りの一人の証言によれば、永倉こそ実戦において隊内一の遣い手であったと言う。近藤と袂を別ってからも彼は誠の為に戦い続けた。


三番隊組長:斎藤一

 試衛館出身ではないが、沖田、永倉、同様新撰組結成当初からの大幹部で一、ニを争う剣客であったといわれる。その剣は暗殺にも振るわれ、谷三十郎、武田観流済らを葬ったという。スパイとして御陵衛士に送り込まれ、伊東甲子太郎の陰謀を暴き山口次郎として新撰組に復帰する。戊辰戦争では土方の後を受け新撰組隊長となり、恩ある会津の為に戦い続けた。激動の明治維新を生き抜き西南戦争では、藤田五郎の名で警視隊、抜刀隊の一員として出征し活躍した。


四番隊組長:松原忠司

五番隊組長:武田観柳斎

六番隊組長:井上源三郎

七番隊組長:谷三十郎

八番隊組長:藤堂平助

九番隊組長:鈴木三樹三郎

十番隊組長:原田左之助


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