明智光秀

出典: Jinkawiki

 

概要

明智光秀は41歳で織田信長につかえはじめたが、それ以前の経歴はわかっていない。優れた才能によって信長の信頼を受け、信長と将軍足利義昭との結びつきをはかった。信長に信頼されたのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉である。さまざまな知恵をめぐらし、戦いに勝ったので、信長は猿と呼んで秀吉をかわいがった。


 明智光秀は優れた戦略と政治力によって、近畿各地、越前などで戦を勝利に導き、44歳で近江(滋賀県)の坂本城主となる。さらに丹波国(兵庫県・京都府)で戦い続け、5年かかってこれを平定する。丹波一国の城主も引き受けることになる。

 1582年、信長は、中国地方を支配していた毛利氏との戦いを秀吉を助けるため、光秀に中国地方への出陣を命じる。明智光秀の軍勢1万3000は、丹波の城を出発し、京都へ進む途中、兵士たちは光秀から「敵は本能寺にあり」と告げられる。中国地方の毛利氏ではなく、そのとき本能寺にいた信長が戦いの相手となった。

 片腕と思っていた光秀の裏切りに、信長はおどろき怒りつつ、燃える炎の中で切腹した。光秀はこのあとすぐに信長の子信忠も自殺させ、信長の城安土城に入場する。光秀が安土城で税金の免除などの政治をはじめたころ、最大のライバル秀吉は毛利氏と和睦。兵を京に送っていたが、光秀はこれを知らなかった。

   京都の山崎で秀吉の軍に敗れ、味方につくと思った武将たちに裏切られ、坂本城にひきあげる途中、光秀は農民のやりに倒れる。12日だけの天下であった。


物語におけるイメージ

明智光秀が登場し、その作品を描く作者によっては両極端な性格付けをされてしまう特徴がある。ここでは代表的な二つのタイプを挙げる。繊細な性格で忠義溢れる人物としての描かれ方。これは明智光秀が知恵を駆使して戦える武将であり、有名な徳川家康の歓待を任されるような人物であったことから生まれたイメージだと思う。よってこのタイプの明智光秀は本能寺の変においては、やむに止まれず、謀反を起こした人物として描かれる。この人物像はかなり流布している。 もう一つのタイプは上昇志向がある、本来の戦国武将の姿である。知恵を駆使して戦う部分は共通しているが、合理的な性格の人物として描かれており、その際には犠牲が大きかろうが、自分の目標のためにはやむを得ないという性格で描かれている。これは主君を裏切った人物として最も有名な人物であり、裏切り者のイメージを重視させた結果である。


参考文献

『小学歴史人物』 赤尾文夫  旺文社

『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂 


  人間科学大事典

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