明智光秀1

出典: Jinkawiki

 明智光秀は「本能寺の変」で主君・織田信長を倒したとして知られている。彼は、美濃の守護土岐氏の流れを汲むとも言われているが、その前半生の経歴は不明である。35歳まで諸国を流浪したあと、1562年(永禄5)、鉄砲の射撃の名手として越前の朝倉義景に使える。その後、足利義昭の側近・細川藤孝の紹介で義昭の近臣となっている。さらに、1568年(永禄11)9月、信長が義昭を奉じて上洛後、行政能力を買われて織田家の客将となった。光秀の行政能力を高く評価した信長は、光秀を近江・坂本5万石の城主に抜擢。1573年(元亀4)頃には、光秀は義昭のもとを離れ、信長の直臣となる。1580(天正8)8月には近江・坂本5万石に加え、庭29万石と亀山上を与えられた。こうして一部芸者から、ついには一国の大守、かつ、織田家の近畿方面総司令官と言う地位に上りつめた。


ところが、1582年(天正10)から、織田家中で異例の出世を遂げた光秀の前途にかげりが少しずつ見え始めた。それというのも、はっきりしたことはいまだ不明だが、信長の関心が光秀から中国地方で毛利氏と戦う羽柴秀吉に移ったことが原因の1つとして見られている。同年5月、光秀は信長より秀吉への援軍を命じられる。これは自分と同格であるはずの秀吉の下で働かなくてはならなくなったことを指す。さらに、たびたび叱責を受け、信長との仲が不和になると、光秀の所領が没収され、「代わりに毛利氏の所領である出雲・石見が手に入ったらそれを与える」といわれたという伝えもあるようだ。また、光秀の立場があくまで信長親征の先方を務める役にあり、援軍の命はなんら侮辱的な発令では なかったという説も考えられる。


  このとき、出陣の準備で丹波・亀山上に滞在中の光秀に、「京都滞在中の信長の随行者は数十名の近習のみで、信忠の手勢も2000ほどである」という情報が入る。このあと、光秀は約1万3000の軍勢を率いて、信長の居る京都を目指した。光秀がその段階でどんな理由で信長打倒を決意したかどうかは今でも不明なままであるが、千載一遇のチャンスに光秀が乗った理由は、活躍の目覚しい秀吉に対して焦りを感じていたことが第一であったとされている。


 6月2日の明け方、京都・本能寺滞在中の信長を急襲し、自害させる(本能寺の変)。しかし、その直後、毛利氏と講和した秀吉が戻り、6月13日の山﨑の合戦で明智勢は敗北、逃走中に光秀はあえない最期を遂げた。


参考文献:「戦国史」    監修:武光 誠            「信長と天皇」  著:今谷 明


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