暗黒の木曜日

出典: Jinkawiki

資本主義社会に恐慌は不可避なものであった。 19世紀の半ば以降、10年に一度は恐慌が起きていた。 しかし、1年程度の経済混乱で経済は回復基調になり、混乱をなんとか乗り切っていた。

第一次世界大戦後の国際経済は、社会主義国家ソ連を除き、アメリカ経済を中心にして回り始めた。 このため、アメリカで恐慌が起きると、その影響は必然的に世界におよぶことになった。

1928年ごろまでは、大戦で痛手を受けた世界経済も戦前の生活水準に回復した。 しかし、大戦中にインドや中国などでは産業が発展し、ヨーロッパの市場が狭まった。

またロシアでは、三月革命に続く十一月革命で社会主義政権が成立、資本主義諸国との経済関係は断絶された。 アメリカ合衆国内でも、ヨーロッパ農業の復活による農業恐慌や、合理化の推進などによる産業界の不況が深刻化する。


「暗黒の木曜日」の大暴落 「悲劇の火曜日」に世界中に波及

第一次世界大戦中に負債国から債権国になったアメリカ合衆国は、戦後、イギリスに代わって世界経済の中心となる。 世界金融の中心もロンドンのロンバード街からニューヨークのウォール街に移行した。

空前の好況に支えられ、合衆国内では株式投資ブームが加熱していた。 この好況がいつまで続くのかという不安も囁かれる中、10月24日、取引開始の一時間後、株式は異例の暴落。 突然に大量の売りが出て、株が大幅に値下がりした。 この日の最終取引は前日の終値に持ち直したが、5日後の10月29日、取引開始とともに「売り」が続いた。 この日は「暗黙の木曜日」に続く「悲劇の火曜日」となり、世界恐慌に向けて事態は決定的になった。

株に値が下がっただけで大恐慌になるわけではない。 それに続いて、物が売れなくなり、仕事がなくなり、労働者が職を失い、職と食を求めてさまようホームレスがあらわれる。 工場や会社が次々と閉鎖され、倒産するようになる。 あらゆる経済活動が低下し、社会の秩序が混乱する状態になって、大恐慌になるのである。

この事態に対して先進国である資本主義諸国は、再開発できる植民地や国内市場を持つ「持てる国」と、それを持たない「持たざる国」に大きく二極分解した。

持てる国の代表イギリスのマクドナルド挙国一致内閣では、1931年のウェストミンスター憲章で植民地や自治領からなる「イギリス連邦」を規定し、排他的なブロック経済体制を樹立した。 同年に金本位制度を廃止し、国際金融の中心的地位を返上した。

一方、持たざる国の代表ドイツでは、全体主義政党ナチスが独裁権力を掌握、戦争を前提にした諸政策を強引に推進し、世界を再び戦争に巻き込んでいく。


参考文献

図解世界史 関眞興 実業乃日本社

世界の歴史 世界大戦と現代文化の開幕 中央公論社 木村靖二 柴宣弘 長沼秀世 1997  


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