服部半蔵
出典: Jinkawiki
徳川家康の部将。名は正成(まさなり)、石見守(いわみのかみ)。伊賀者(いがもの)を統率して活躍し、鬼半蔵(おにはんぞう)の異名で恐れられた。父の保長(やすなが)は伊賀国(三重県)阿拝(あへ)郡服部郷(はっとりごう)の出身で、初め将軍足利義晴(あしかがよしはる)に仕えたが、のち三河国(愛知県)に来(きた)り、松平清康(きよやす)・広忠(ひろただ)(家康の父)・家康に歴仕し、三河で没した。半蔵正成は保長の五男で三河に生まれ、16歳のとき三河の宇土(うど)城の夜討ちに初陣し、伊賀の忍びの者60~70人を率いて城内に潜入し、武功をたて家康の持槍(もちやり)(長さ7寸8分)を拝賜したのをはじめ、姉川(あねがわ)、高天神(たかてんじん)、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いなど、諸所において目覚ましい働きをみせた。とくに1582年(天正10)本能寺の変に際しては、おりから泉州堺(せんしゅうさかい)に滞在中の家康を護衛して、伊賀の加太(かぶと)峠越えに、無事三河へ帰還させた。これらの功によって物頭(ものがしら)に進み、遠州(静岡県)に8000石を領し、家康の関東入国後は、江戸城麹町口(こうじまちぐち)門(俗に半蔵門とよぶ)外に組屋敷(くみやしき)を拝領した。
伊賀流
甲賀流と並ぶ忍術の主流派。伊賀(三重県北西部)の地侍や郷士の間に伝えられた物見(ものみ)、夜討(ようち)、剛盗(ごうとう)など、いわゆる細作(さいさく)(忍び)の術であり、この地方に古来の山伏兵法をもととして、火術の妙を加え、種々の忍具を創案して編み出された武術をいう。その秘密性からか伝書もきわめて少なく、一般の武術流派のような流祖や伝系が明確ではないが、戦国時代を通じてほぼ完成の域に達したもので、俗に伊賀四十九流といわれ、伊賀流はその総称である。
服部半蔵と影の一族:学研M文庫
服部半蔵―家康を支えた諜報参謀:PHP文庫