朱印船
出典: Jinkawiki
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朱印船とは
16世紀末~17世紀初頭,豊臣秀吉・徳川家康らが朱印をおした海外渡航免状をもつ貿易船をいう。朱印状は,大高檀紙1枚に渡航先と下付年月日を記入し,末尾に朱印をおしたもので,1航海限り有効のものであった。秀吉は,1592年(文禄1)に長崎・京都・堺の商人に与えたといわれ,その渡航先は広南・東京(とんきん)・占城(ちゃんぱ)・柬埔寨(かんぼじや)・六昆・太泥(ぱたに)・シャム・台湾・呂宋(るそん)・阿媽港があげられる。江戸時代に入って,1604年(慶長9)から鎖国にいたる1625年(寛永12)まで延355隻が中国から東南アジア方面に渡航した。朱印状は,西南大名や京都の豪商である角倉了以・茶屋四郎次郎,大坂の末吉孫左衛門,長崎の荒木宗太郎や,幕吏となっていた末次平蔵ら105人に与えられた。朱印船は,輸入品として生糸・絹織物・鹿皮・砂糖・象牙などをもちかえり,輸出したのは銀・銅・硫黄・刀剣などであった。
朱印船制度の創設
朱印船制度ができたのは、それまで朝鮮、中国沿岸から東シナ海にかけて盛んに活動し、大いに恐れられた日本の海賊船と、正規の許可を得た貿易船を区別するためだと考えられている。豊臣秀吉は1588年に海の刀狩りともいわれる海賊禁止令を出しているが、秀吉の海外渡航許可の朱印状は一通も残っていない。
朱印船に使われた船
1604年(慶長9)以後の32年間で356艘を数え、年平均11艘が従事した。船主には西南大名、幕吏、内外の豪商たちがいた。船舶に関した記録が大変少ないので、はっきりしたことは不明であるが、1600年(慶長5)12月、フィリピン沖でオランダ艦隊に捕らえられた船の絵や、近代地図学の開祖・メルカトールの作成した日本地図(1607年、1620年刊)に描き込まれた日本船を見ると、中国式のジャンクが描かれている。これを裏付けるように、朱印船に雇われて渡航した朝鮮人が、日本船は小さくて大洋を航海できないので、180人乗りのジャンクを買い入れ、中国人の船長を雇って航海したと述べている。現在、10点ほどの朱印船の絵が残されているが、こうしたものを見ても「日本前(にほんまえ)」、あるいは「朱印前」と呼ばれた朱印船は、みな中国式のジャンクをベースとして、これに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、それに日本の伝統的技術を加えた折衷形式の船であることがわかる。これらは中国やシャムなどで購入されたが、一部、日本でも造られた。1617年(元和3)、平戸藩の重臣佐川信利が平戸で建造したのはその一例である。 朱印船の積載量は、小さいもので薩摩の島津氏が福州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)から、因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差があった。
朱印船の渡航先
朱印船の渡航先は、南支那沿岸各地、インドシナ半島の諸港湾や南洋諸島の赤道以北地域に跨っていたが、就中、主たる寄港地は高砂(台湾)、呂宋(ルソン)、カンボジア、東京(トンキン)、交趾(コーチ、ベトナム中部以南)及びシャム(タイ)の6地だった。これらの地には日本人が移住した例が多く、日本町が発達した所もあった。
参考文献
朱印船 吉川弘文館 永積洋子 著