東洲斎写楽
出典: Jinkawiki
概要
東洲斎写楽は江戸時代中期の浮世絵師である。寛政6年5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10カ月の間に約145点もの錦絵作品を出版した。役者絵と相撲絵を集中して発表し、作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された。絵は極めて個性的であり、瞬間的表情や個性を誇張して大胆に表現した写実の手法に特徴がある。 写楽の画業の軌跡は4期に分けられる。写楽のデビューである第1期は、寛政6年5月、江戸三座の夏興行に取材した大判黒雲母摺による役者大首絵28図。同年7月からの第2期は、36図すべてが全身像となり、黒雲母摺は少なく、白雲母摺や黄ツブシの細判の作品が多く出てくる。11月からの第3期は、役者絵58図で一番多い。背景に舞台装置などが描き添えられた細判が多くなり、間判の半身像もある。第4期は、寛政7年正月、役者絵は10点と少ない。すべて細判で背景には舞台の様子がよく描かれ、資料的な印象が強い。第3期からは相撲絵、武者絵なども登場している。 本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、謎の浮世絵師として知られる。その正体について様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者である斎藤十郎兵衛だとする説が有力となっている。 代表作として、「市川蝦蔵の竹村定之進」、「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」、「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」、「嵐龍蔵の金貸石部金吉」などが挙げられる。
斎藤十郎兵衛説
写楽研究急展開のきっかけになったのは、2008年にギリシャの美術館で発見された写楽の肉筆画だった。これを分析した研究者たちは、この肉筆画が写楽自身のもので、版画からはうかがうことのできない、写楽の創作の特徴を知ることができた。もっとも参考となるものは、線の引き方と筆の運び方である。耳を五本の線で書き表すなど、写楽には独特の癖があり、また線を引くときに、一気に引くのではなく、短い線を重ね合わせるようにして長くしていくという独特の方法を取っている。こうした写楽の癖から、北斎や歌麿をはじめ、いままでに写楽ではないかと疑われた有名画家と写楽の絵を、筆使いという側面から比較してみたところ、どれも一致していなかった。ほかの画家にも、写楽と断定できるような共通性を指摘できるものはなく、写楽を他の有名画家の仮の姿とする説は退けられた。 写楽の正体をめぐっては、有名画家説のほかに、版元の蔦屋説と能役者斎藤十郎兵衛説あった。蔦屋説は、写楽が描いた別の肉筆画が蔦屋の死後に書かれたことが明らかになったことで、退けられた。 斎藤十郎兵衛説は、『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が1844年に記した『増補浮世絵類考』に、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」であるという記述がある。これが唯一、江戸時代に書かれた写楽の素性に関する記述である。八丁堀には、当時蜂須賀藩の江戸屋敷が存在し、その中屋敷に藩お抱えの能役者が居住していた。また、蔦屋重三郎の店も写楽が画題としていた芝居小屋も八丁堀の近隣に位置していた。“東洲斎”という写楽のペンネームも、江戸の東に洲があった土地を意味していると考えれば、八丁堀か築地あたりしか存在しない。さらには“東洲斎”を並び替えると、“さい・とう・しゅう”(斎・藤・十)というアナグラムになるとも推測することもできる。近年の研究によって斎藤十郎兵衛の実在が確認され、八丁堀に住んでいた事実も明らかとなったため、現在では再び写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となっている。
作品
「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木」
「嵐龍蔵の金貸石部金吉」
「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」
「四代目岩井半四郎の乳人重の井」
「三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ」