東禅寺襲撃事件
出典: Jinkawiki
東禅寺襲撃事件 概要 文久元年5月27日、長崎から江戸に向かってイギリス公使オールコックの一行が、尊皇攘夷派浪士に襲撃された。オールコックの宿である東禅寺を襲ったのは、有賀重信ら水戸浪士の24名。外国人が富士山に登り、江戸に来るということは神の国日本を侮辱しているという考えによって起こった事件であった。 オールコックの江戸参府 この年の4月香港から戻った、イギリス公使オールコックは海路ではなく、陸路を通って江戸へ向かう計画を立てる。これは、鎖国時代にオランダ商館長が陸路を通って定期的に江戸に参府していたことに習ったものであった。これを聞いた長崎奉行は当然のことながらこれに反対する。前年の井伊直弼暗殺、ヒュースケン殺害と尊皇攘夷派の動きはますます過激になっていき、道中の安全を保障する自信がなかったからである。しかし、オールコックはこれを無視し、条約に記された国内旅行の権利を主張し、陸路による江戸行きを敢行するのである。 攘夷派の怒り 攘夷派の水戸浪士たちは、オールコックをテロの目標としてつけ狙っていた。というのも、オールコックには前年に幕府の制止を聞かずに、当時の日本人からあつい信仰の対象となっていた富士山に登ってしまったことがあり、これが神の国に対する冒瀆と映ったのである。そこへ今度は、陸路を通って江戸に入るという、攘夷思想の持ち主にとっては我慢のならない事件が起きたため、彼らが決起するのも当然であろう。言い換えると、これは狂信的な神道信者による聖戦であったとも言えるであろう。 事件の経過 文久元年5月27日、オールコック一行は予定通り長崎から陸路を通って東禅寺に帰りついた。長崎奉行らの危惧は外れたとオールコックは思ったであろう。しかし、次の日の夜、事件は起きてしまう。東禅寺は郡山藩、西尾藩ら150名の武士によって警護されていたが、14名の攘夷派浪士は境内に侵入し公使館を襲撃することに成功する。警護の武士らの詰所と公使館が離れていたために、襲撃が始まるまで警護武士たちはこれに気づかなかった。3方に分かれた攘夷浪士は書記官オリファントと領事モリソンに負傷を負わせることはできたが、公使館全員の殺害という目的を果たせず、2名の死者と1名の重傷者を残して、逃げ去ることとなる。しかし、それまでに大使館員、警護の武士ら20名以上に死傷をおわせる大きな被害を与えることに成功したのである。