桶狭間の戦い
出典: Jinkawiki
目次 |
概要
1560年(永禄3)5月19日、尾張国桶狭間(愛知県豊明市)における今川義元と織田信長の戦い。この戦いで織田信長の名が全国に知れ渡ることとなる。
両者の状況
今川義元は、駿河・遠江・三河の三カ国約100万石を領し、公称4万、実数2万5千の大軍を率いていた。一方織田信長は、まだ、尾張半国約20万石を領したところであり、総勢2千5百万の軍を率いていた。両者の力の差は歴然としたものである。
戦いの経過
永禄3年5月今川義元は、領土の支配徹底と拡大のため、尾張に2万5千の大軍を率い侵入してきた。これに対し、信長は要所に砦を築いたが、最前線の防衛基地である丸根・鷲津の両砦を今川軍に落とされた。同月19日、今川軍は本陣を桶狭間のうちの田楽狭間に移した。 信長は善照寺砦へ向かおうとしていたとき、梁田政綱の配下により、今川軍の本隊が田楽狭間に休止したという報告を受けた。丸根・鷲津を攻め落とした義元は、田楽狭間でしばし軍を安め、勝利の美酒に酔っていたのである。この報告を受け、信長は直ちに軍勢を東に転じ、敵に気づかれないように迂回し、迅速に太子ヶ根に出ると、おりからの豪雨の中を、眼下に開ける今川本陣に向かって奇襲攻撃を開始する。突然の襲撃に、虚をつかれた今川軍が右往左往する中、信長の近習毛利新助が、義元の首をあげた。
信長の勝因
義元があっけなく討ち取られたのは、田楽狭間が狭いくぼ地で、大軍を分散させなければならなかった上に、にわかの豪雨をまともに受け、雨宿りのため義元を守っていた軍勢が四方に散り、わずか3百人ほどになってしまったことにある、という説がある。しかし一方で、豪雨など降っておらず、信長は、今川義元が2万5千の軍を率いて進発した時点から、綿密な諜報活動を開始し、義元を奇襲すべき場所と日時を決定していた、という説もある。
参考
『図解雑学 戦国史』(2005)ナツメ社
『[図解]戦国武将おもしろ事典』(2000)三笠書房