森永ヒ素ミルク事件
出典: Jinkawiki
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概要
1955年(昭和30年)、森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによって生じた人災的ヒ素中毒事件。 森永乳業徳島工場で原乳の乳質安定剤(酸度安定剤)の第二リン酸ソーダを検査なしに使用したため、 粉ミルク製造工程で「森永ドライミルクMF缶」にヒ素が混入した事件。 西日本で衰弱死や肝臓肥大を起こす乳幼児が続出した。 被害は西日本を中心に1都2府25県にわたり、乳児133人が死亡、 人工栄養児1万2131名が被害を受け、中毒にかかった。 世界最大級の食品公害となった。患者は、現在も脳性麻痺・知的発達障害・てんかん ・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない日常を強いられている。 さらに、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に送られた被害者や、 ミルクを飲ませた自責の念で今もなお精神的に苦しんだりしている被害者の親も多い。
経過
1953年秋、新日本軽金属清水工場で、ヒ素とリン酸を大量に含む物質が取出され、 静岡県衛生部が厚生省に照会したが、同省は「毒劇物取締法上のヒ素製剤には該当しない」 と回答、出荷可能となった。新日本軽金属清水工場で生産された大量のヒ素を含む第二リン酸のソーダを、 新日本金属化学が購入し、さらに、丸安産業を経て松野製薬に渡った。 松野製薬は、この第二リン酸ソーダを生駒薬価で脱色精製させ、協和産業に納入した。 1955年4~8月、森永乳業徳島工場で粉ミルク製造において、 原乳の乳質安定剤(酸度安定剤)として使用するため協和産業から3回にわたり 「工業用第二リン酸ソーダ」を混入した。森永乳業徳島工場で、 粉ミルク製造工場でこの第二リン酸ソーダを使用し、「森永ドライミルクMF缶」を製造した。 6~8月、西日本で、「森永ドライミルクMF缶」のミルクを飲んで衰弱死や肝臓肥大を起こす乳幼児が続出した。
1956年6月9日、厚生省が、乳児133人が死亡、人工栄養児1万2131名が被害を受けたと発表した。
原因
1.乳質安定剤の検査をしなかった(手順無視)
森永乳業徳島工場では、粉ミルクの製造工程でつかう乳質安定剤の「第二リン酸ソーダ」を検査せずに使用した。
2.販売品の毒性検査が抜けた
森永乳業徳島工場への乳質安定剤の供給業者である協和産業で毒性検査が抜けた。食品工場への納入ということは、判っていたはずである。
3.厚生省の判断ミス
そもそも、原料について厚生省が「毒劇物取締法上のヒ素製剤には該当しない」と回答したことが原因で、出荷可能となり流通してしまった。
その後
各地で被害者組織が結成され、刑事・民事訴訟が行われたが、 63年の刑事裁判一審(徳島地方裁判所)判決で森永側は無罪となり、 被害者側に不利な状況が生まれた。しかし、69年、公衆衛生学会で、 被害者側の多くが脳性麻痺などの重度障害となったとの後遺症の実態が明らかにされたのを契機に、 後遺症の心配はないとしていた厚生省も対策に乗り出し、森永側も因果関係を認められるようになった。 刑事裁判は差し戻しされ、1937年11月、徳島地裁は森永の刑事責任を認め、 元製造課長に禁固3年の実刑判決を下した。また、同年10月には「森永ミルク中毒の子供を守る会」 と厚生省・森永との間で救済対策の早期実現が合意され、12月、森永は基金30億円を拠出することになり、 翌年4月、恒久的な救済期間として財団法人「ひかり協会」が設立された。 そして、森永乳業(東京都港区、東証1部上場)は、2011年9月末をめどに徳島工場を閉鎖する方針を決めた。
参考文献
朝日新聞社 http://www.asahi.com/business/update/1112/OSK201011120169.html
失敗百選 http://www.sydrose.com/case100/302/
ron