植民地4
出典: Jinkawiki
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植民地主義とは
植民地主義ないし植民地体制とは、集団の支配・被支配の関係でありこの関係にあっては、植民地化された側の生存方式についての基本的な決定が、文化的に別種のほとんど適応意思のない支配側の少数集団によって、外部の利益を優先的に顧慮して行われ、実施される。 近代の植民地主義の特徴として3つがあげられる。
①植民地主義は、支配側と被支配者側の任意の関係ではない点。ひとつの社会全体から自主的に歴史を発展させる可能性を奪い、その社会を「他社の支配下」において、支配側の主として経済的な需要と利益にかなうように、方向転換を強いるもの。
②植民地化する側と、植民地化される側とが「異質」であることが重要な意味を持つ点。植民地主義を定義する場合には支配側に適応する意思が欠けていた点を考慮する必要がある。
③近代の植民地主義は支配構造の歴史という観点から説明できる支配・被支配の関係。同時にこの関係の特殊な解釈でもあり、その中核をなすものの一つが特有な意識の姿勢である。 アフリカ史の専門家フィリップ・カーティンは、一般的に「異なる文化をもつ民族による支配」としている。
植民地の分類
1.支配植民地 武力侵略や戦争の結果だが、比較的長期にわたって土地占拠のない接触が続いたあとで成立することが多い。目的は、独占貿易、地下資源の利用などの経済的搾取や、帝国主義的政治の戦略的な防衛、国家的威信の獲得などである。本国による専制的な統治に、先住民に対する家父長的な保護の要素が加わる。例として、イギリス領インド、アメリカ領フィリピン、日本領台湾などが挙げられる。
2.拠点植民地 艦船による占拠行動の結果成立するもので、目的は後背地との間接的な貿易の開拓、兵站(へいたん)の確保、公式の独立国に対する非公式の干渉など。例として、ポルトガル領マラッカ、イギリス領シンガポール・香港などがあげられる。
3.移住植民地 武力に支援された入植過程の結果である。目的は安価な土地や労働力の利用、日本では疑問視される少数集団による社会文化的生活形態の実現など。主に定住農民や定住移民の形式で植民が行われる。先住民の権利及び利益を侵害して、白人移民が自治に至るまでの初期形態である。 この型の変形として3つの型がある。
①ニューイングランド型 経済的に利用価値のない先住民を排除して、一部は抹殺した。
②アフリカ型 先住民の労働力を経済的に利用する。
③カリブ型 外部から労働奴隷を輸入する。
植民地支配の順序
植民地支配は何の用意もない犠牲者が不意打ちを食らうかたちで成立するといったものではなく、通常は「発見」による最初の接触から徐々に形成されていく。地理学者兼歴史学者のドナルド・W・メイニグは、アメリカの場合をモデルに8段階の順序を仮定している。未知の土地の探索→沿岸地域での資源の収集→現地住民との交易→内陸地域での略奪と最初の武力行使→拠点の確保→強権による取得(支配要求の象徴的な通告と最初の公式代表の配置)→最初の民間入植者の入植と自立的な集落の建設→完全な植民地支配機構の形成
教育
1.学校
文化価値を仲介する先頭に立っていたのは学校であった。学校は、宣教会や国家の手で経営されたが、イギリス・ベルギー・ドイツは宣教会に任せて必要に応じて援助するという方式をとった。教育はふつう「重要」な植民地政策の優先順位には含まれていなかったから地域地域で様々な形式で行われ概観することは難しかった。
①中等学校制度 拡充強化が相対的に最も進んでいたのが中等学校制度である。主な受益者は都市の中間層現地住民の息子たちであった。将来、行政府の下級職の幹部や、ヨーロッパ企業の被用者となるように教育された。学費が必要だったため入学の機会はおのずと制限された。植民地国家の高級官吏に登用されるにあたって、人種的な障壁と同程度の影響があったのが日本の大学の卒業企画を必要とするという規定で、この規定が広く行われていた。しかし、フランスまたはイギリスで学校教育を受けたり、大学へ入学したりする道は少数の上層階級に以外には開かれていなかった。
②初等教育 ほとんどすべての植民地社会では、都市以外の地方での初等教育が普及していなかった。特にイギリスでは植民地時代末期にいたるまで、住民の初等教育にはあまり重きを置いていなく、一般住民の教育計画は、意図はすこぶるまともだったが、財政難で実現をはばまれた。
2.言語問題
植民地支配者の「高い文化」の言語か日常言語かどちらを用いるかという問題。アフリカ人にフランス語を教えれば、意思の疎通は容易になろうし、彼らに公務を託す以上、ほとんど避けがたいことだったが、それはまた、彼らを反国家的な破壊思想に近づけ、自分たちが植民地支配者と同等の存在だという誤った意識を覚醒させないということである。入植者側は現地住民の教育は最低限に抑え、住民が使用する言語を地域の言語に限定しようとする傾向があった。 言語の問題は大半の人間にとって歴史的な意味づけより身近な問題であり政治的な起爆剤にもなりうる問題だったため言語政策は、意識的にアイデンティティの確認に利用された。このことは言語地図が地域的にも社会的にも分断されているように見えれば見えるだけ重要となる。民族、言語のいずれもがきわめて多様な多島国であるフィリピンではアメリカの植民地権力の支援を受けて、すでに1939年に地域語のタガログ語を国語と定めている。これは独立後、少なからぬほかの国々がとることになった政策を先取りしたものだった。
日本の創氏改名について
日本が植民地として支配していた時期、朝鮮人の名前を日本人風の名前に変えるという政策を創氏改名といい、1940年に行われた。単に名前を日本的なものに変えるという政策であったのではなく、朝鮮の家族制度のあり方そのものを変えようとしたものだったのである。名前の問題だけに限って言えば、日本人風の名前を禁止する政策は1910年代から1930年代まで続いたが、1937年(創氏改名の二年ほど前)に、新生児については日本人風の名をつけることを認められる措置が取られているから、日中戦争の時期の皇民化政策の中で名前に関しても政策の変更が検討され始めたことが分かる。
脱植民地化
個別の場合を歴史的に分析する際にはさまざまな要因が多様に混在することに留意しなければいけなく、その際につねに考慮に入れる必要があるものとして6つがあげられる。
①植民地の社会・経済の状態
②反植民地解放運動の担い手、目標、行動形式、激しさ
③植民地政府および入植者の暴力行使
④植民地経済からの利益と、本国が握る植民地政治の決定権
⑤第三勢力の影響
⑥世界経済の情勢
脱植民地化は、より正確にいえば近世以降の世界史に確認できる植民地支配からの撤退の第三段階であり、明らかに国際システムの再編成の過程とみることができる。脱植民地化は国際政治上の現象としては、世界の国家体制が新たな秩序へ移行する動きの一部とみることができる。この新たな秩序には1989年から1991年にかけての大きな変動に至るまでに次の5つの特徴があった。
①高度の軍事力を保有する二つのブロックが世界規模で対立したこと
②ヨーロッパの大国が再ヨーロッパ化したこと
③脱植民地化後に多くはアメリカまたはソ連の保護国という関係にたつ多数の新国家が成立したこと
④1945年以前の時代と比較して、国際機関、とくに国連が強化されたこと
⑤「植民地主義」のイデオロギーは総じて排斥されたが、国際的な現実には人種差別が存続したこと
現在の課題としての「植民地主義」
韓国や台湾で進んだ民主化は、冷戦時代の軍事政権の下で築かれてきた強権支配体制の体制の解体を目指すものであったが、それはまた過去の日本による植民地支配という歴史にも人々の目を向けさせることにもなった。そこで意識されるようになったのは、文化や思想などの面での植民地支配の負の遺産の問題である。韓国では特に「親日派」の問題が歴史研究のみならず現実政治の場でも議論さえされることになった。植民地時代に日本に協力し植民地支配からの解放後も政治・経済・文化などの分野で指導者となった親日派の問題である。 では支配の側にあった日本にとって植民地主義の現在の課題とは。日本が支配の対象とした朝鮮・台湾における植民地主義を問題とすれば、当然ながら支配者側の植民地主義をも問わなければならない。植民地支配の時期に被支配者に対して抱くようになった差別や偏見がどのように形成されたのか、そして現在に至るもそのような差別・偏見がいかに受け継がれているか、という問題を問う必要がある。 しかし、「植民地主義」を考えることはそのような問題にとどまるものではなく、「近代化」「文明化」「同化」などのイデオロギーの下で生活や文化といった領域で形成された権力関係を解明すること、日本が植民地に持ち込んだ「近代」は日本にとっても同時代性を帯びたものであることを明確にしつつ、日本の歴史的なあり方を問い直すこと、そして日本の植民地主義に独特の色合いを帯びさせた天皇制イデオロギーの問題を再考することなどの課題もある。 日本の植民地主義を問うことは、日本の近代史と現代の課題を見直すことにもなる。
植民地主義の経済形態
植民地の侵略は、もともと主に経済的な理由以外の理由による場合でも、各地域の経済には、深部に達する影響をあたえている。植民地支配は、ヨーロッパが近代になって初めて作り上げた大陸間の交換関係に、自然の富や人的労働力といった新たな資源を持続的に補給するうえで、きわめて重要な手段のひとつだった。植民地支配周辺地域にあたえた経済的な影響には、もとより時期や地域で大きな違いがある。 アメリカで、世界の経済システムにつながる道が開かれたのは侵略を通じてだった。それが旧世界では逆であり、植民地以前の対外貿易で、すでに各地とのつながりが生まれていて接触がなかったのはアジアやアフリカの、海岸から遠い地域が労働力や資源に乏しいだけだった。アフリカの大部分は植民地支配以前からすでにほかの大陸と深いつながりがあった。はじめは、大西洋経由の奴隷貿易や東洋との奴隷貿易だったが、のちに、「合法的な」物品貿易に変わる。沿海地域に生まれた新たな利得の機会はアフリカ内陸の社会変動の重要な原因ともなった。 この傾向は明らかに脱植民地以後も同じように続いていて、植民地支配の関係が終わってからも、世界経済への依存関係は変わっていない。日本は例外だが、政治的に独立していながら、後に「第三世界」となった国々は結局、植民地と変わらない発展経過をたどる羽目になる。植民地支配は、南北の関係の経済史全体から見れば、多くの局面のなかのひとつを出るものではない。植民地経済を語ることは植民地国家が、常に貿易や生産に介入していた場合に限る。
参考文献
植民地主義とは何か ユルゲン・オースタハメル/石井良
生活の中の植民地主義 水野直樹