武田信玄

出典: Jinkawiki

武田信玄

 甲斐の守護である武田信虎の子として1521年に生まれたのが武田信玄である。元服名は晴信。 父である信虎は領国支配に力を入れていたが、悪逆非道な面もあり、民衆からの信頼を失いつつあった。信玄は民衆からの意思を受け、1541年に父を駿河の今川氏のもとに追放し、21歳で家督を継いだ。  当時は、家族よりも国のことを優先して考えていたことが、信玄が父を追放したことからうかがえる。

 信玄は武将としても、また政治家としても優れていたといわれている。まずは自国の戦力を高めることから始め、領国の民の栄養失調に対して米のとれる土地をとる必要性から、諏訪氏を滅ぼして諏訪平の米産地を手に入れた。また、1542年には武田憲法なる「甲州法度」を設け、自らの政治方針を明らかにした。そこには戦国大名である自覚や、自ら定めた法を自らは守るという意思表示が示されている。

 また、上杉謙信との戦いである川中島の戦い(1561)では、軍師である山本勘助の策略、キツツキ戦法が行われた。信濃全域を手中におさめた信玄は、つぎに駿河を押さえる必要があった。当時、駿河では桶狭間の戦いで今川氏は軟弱化しており、信玄は直ちに攻め込む決意を固めていた。しかし、信玄の長男である太郎義信は今川氏真の妹を妻にしており、父である信玄の考えを支持することができなかった。よって、信玄は義信を幽閉し3年待った翌年、駿河の小田原城を攻め、制圧した。義信は幽閉された3年後に31歳で亡くなったが、その死は病死とも自害とも言われている。

 さらに信玄は、反信長勢力と結んで上洛に向かった。1572年、信玄は3万人の大軍を率いて遠江の三方ヶ原で徳川、織田連合軍1万1000を見事粉砕した。しかし、彼は結核という病のため上洛を中止し、いったん甲斐に引き上げる途中、1573年、53歳のとき、信州伊奈郡の駒場で息を引き取った。


   疾(はや)きこと風の如し    徐(しづ)かなること林の如し    侵掠(しんりゃく)すること火の如し    動かざること山の如し    「風林火山」


 信玄は亡くなる前に遺言を残していたといわれている。それは「3年間喪を秘せ」というものだったと『甲陽軍鑑』に書かれているそうだ。しかし、戦国の時代、3年間も喪を隠して戦わないでいたら、武田は滅びるであろう。これは、信玄を盛りたてた家臣軍が作ったとも考えられている。 信玄が亡くなってからの武田氏は勝頼によって引き継がれたが、まだ弱体だったため、信玄は3年間の時間稼ぎをしたのかもしれない。しかし、その後、1575年に三河長篠の合戦で織田信長・徳川家康の連合軍致命的な打撃を受け、その後武田氏は滅亡した。

 武田信玄は織田信長から最も恐れられていた人物とされている。三方ケ原で一度、武田が勝利を収めていることから、もし武田が病に倒れなければ天下統一に一番近かったのは武田信玄であったのかもしれない。さらに、信玄と謙信のライバル争いは彼らの天下統一を遅らせたと同時に、お互いの勢力を奪ったあげく、信長に天下統一への道を譲ってしまったともいえるだろう。また、死を3年間伏せていたにも関わらず、信長は情報通でありそれをいち早く見抜いたという。このことから、信長の天下統一への道は運良く切り開かれたものだったのかもしれない。




角川書店編 1983『日本史探訪9』角川書店

河合 敦 2005『スーパービジュアル版 早わかり日本史』日本実業出版社

武光 誠 2000『3日でわかる戦国史』ダイヤモンド社


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