武田家
出典: Jinkawiki
新羅三郎吉光(源義家の弟)を祖とする門家であり、平安期に甲斐武田荘(山梨県韮崎市)の荘官となって武田姓を名乗った。以後、代々甲斐守護を務めた。甲斐源氏とも呼ばれ、安芸と若狭に分家がある。第19代の信玄が戦国大名として雄飛。甲斐躑躅ヶ崎館(甲府市)を拠点に勢力を拡大し、信濃、駿河など東国に領国を築いた。しかし、信玄の子勝頼が信長に攻められ、天正10(1582)年に滅亡する。
武田信玄
甲斐守護の第18代信虎の嫡男。母は、豪族大井氏の娘、大井夫人。幼少より利発で、岐秀元白を師に英才教育を受ける。「孫子」など軍学を学ぶ。有名な『風林火山』は、孫子の句を旗印としたもの。ただ、信虎とのソリが合わず、長じてから抜き差しならぬ対立関係になる。天文10(1541)年、信虎の暴政に苦しむ家臣とともにクーデターを起こし、信虎を駿河に追放し、当主となった。家督相続直後、信濃への侵略を開始。山国の甲斐に比べ、信濃は肥沃な土地だった。諏訪氏、小笠原氏、村上氏など豪族を倒し、天文22(1553)年には信濃の過半を制圧。豊かな土地を手に入れたことで、武田家の力は飛躍的に高まる。信濃侵略の一方、内政にも優れた手腕を発揮した。とくに治水事業として「信玄堤」の築堤は有名である。甲府盆地の水害を防ぐため、約20年かけて完成させた。信濃征服後は越後の上杉謙信と長き抗争に入る。両軍は天文22年(1553)から永禄7年(1564)の間に越後・信濃国境付近の川中島で5度激突したが決着はつかず、中でも永禄4年(1561)の戦いは戦国史上最大の激戦で、両軍合わせ3000人以上の戦死者を出したとされる。元亀3年(1572)、勢力を増す信長、家康連合と戦うべく大軍を率いて「西上作戦」を開始。三方ヶ原(静岡県浜松市)で家康を破ったが、直後に病に倒れ、作戦は中止となった。帰途の信州伊那駒場の陣中で病死、享年53歳。
武田信虎
武田信玄の父。武田家17代当主・信縄の嫡男。母は、岩下越前守の妹。信玄が戦国大名として雄飛する基盤を築いた。永正4年(1507)に信縄の病死により14歳で家督を継ぐ。甲斐守護といっても当時の武田宗家の勢力は東部一帯に限られたものだった。今川、北条ら隣国からの度々の侵略があり、まず武田庶家や国人衆を制圧し、内乱を続けていた甲斐一国を平定することが信虎の課題となる。翌年に、骨肉の争いを繰り広げていた叔父の信恵を勝山城に倒す。次いで郡内(都留郡一帯)の有力豪族・小山田氏との和睦に成功し、同盟関係を結ぶ。永正13年(1516)には大井郷(南アルプス市)の大井信達を降伏させ、信達の娘・大井夫人を娶る。領内の豪族を次々に傘下に組み込み、被官化させ、武田家家臣団を形成していった。また、永正16年(1519)には甲府に躑躅ヶ崎城を建造し、石和館(笛吹市)から本拠を移して、甲斐の中心部とした。天文元年(1532)に甲斐を平定。天文6年(1537)から本格的な国外侵攻として信濃佐久へ進む。しかし、家臣に対する残虐な仕打ちが多かったことから、天文10年(1541)、信玄と家臣の反乱に遭い、駿河に追放され、その後は駿河や京で過ごす。信玄死後の天正2年(1574)に高遠城で勝頼と対面。間もなく同地で亡くなった。享年81歳。
武田勝頼
信玄の四男。永禄5年に元服し、諏訪氏の名称を継承。高遠城(長野県伊那市)の城主となる。信玄の嫡子・義信の謀反(永禄8年)の直後、織田信長の養女遠山夫人と結婚。元亀2年に、正式に武田家の嫡子となる。天正元年、信玄の病没により、家督を継承。しかし、信玄の「3年間喪を秘せ」との遺言が、その後の彼への重しとなった。「勝頼はまだ頼りにならない」と受け取れるためである。勝頼は生涯、家中を統率するのに苦慮した。織田・徳川連合軍との戦いを継承し、天正2年、徳川方の高天神城を攻略。武田の最大版図を築く。しかし、翌年の長篠の戦で連合軍に惨敗。求心力を失い、徐々に家中も分裂していく。天正6年の上杉家の跡目争い「御館の乱」で上杉景勝を支持。上杉と同盟し、北条と敵対関係になる。こうして、信長、家康、氏政を一度に敵に回したことで、苦戦が続いた。天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を築城して巻き返しを図るが、木曽、穴山ら家臣の裏切りが相次いだ事で孤立。翌年3月11日に織田軍の攻勢に抗しきれず小山田信茂の離反も重なって、天目山(甲州市)麓の田野で戦死した。享年37歳。
参考文献:戦国武将事典 乱世を生きた830人 新紀元社