毛利元就

出典: Jinkawiki

毛利元就[1497(明応6)~1571(元亀2)] 享年75

・山間の一国人から大名への道

 毛利氏の所領は当初、安芸吉田盆地一帯のみだったが、のちには中国地方の13か国を領有するにいたる。一地方の国人領主に過ぎなかった毛利氏を、中国の覇者にのし上げたのが、毛利元就である。元就が家督を継いだとき、毛利氏は出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力にはさまれ、厳しい立場にあった。元就は両者がにらみあっているうちに、備後南部の竹原小早川氏に三男の隆景を、安芸の吉川氏には次男の元春を養子に送り込んだ。勢力伸長のための準備を着々と進めていったのである。その後、元春を強引に吉川家当主とし、沼田小早川氏の相続問題にも介入し隆景に家督を継がせた。毛利氏は安芸。備後、石見の3カ国を勢力圏とする大名に成長したのである。

・伝説的な奇襲戦を制して中国地方全域を支配する巨大大名に

 小早川家と吉川家を得たことで、元就は安芸一国をほぼ手中にした。しかし、大内氏への臣従は相変わらず続けていた。尼子氏や大内氏に比べると毛利氏の力はまだまだ脆弱だったのだ。しかし、1551年、その力関係を一気に逆転するチャンスが巡ってきた。大内義隆が、家臣の陶晴賢に謀殺され大内家が奪われてしまう。元就はしだいにこの陶晴賢と反目するようになるが、陶晴賢が支配する大内氏の動員兵力は3万、元就はその5分の1しかなく、正面から戦えばまず負けは目に見えている。ここで元就は、得意の謀略で必ずしも陶晴賢に臣従しているわけでない大内氏家中を揺さぶり、その力を削ごうとした。そして陶晴賢が内乱鎮圧のために山陰方面へ進軍した機をみて、ついに反旗を翻す。元就の行動に怒った晴賢は2万の兵を率いて安芸へ進行。海上交通の要衝であった厳島へ陣を構えたが、これも元就が謀略を駆使して巧みに誘導したものだった。元就は厳島に宮尾城を築いて「あの城を奪われたら、敵に侵攻の拠点を与えてしまう」と、築城を元就が後悔しているという噂を流させたのである。晴賢はその噂を信じて宮尾城攻略のために厳島に上陸したのだが、大軍ゆえに狭い島の中では身動きがとれない。しかも、完全に油断していた嵐の夜に毛利軍の軍勢が上陸して、寝入っていた陶軍に奇襲攻撃をかけて、一気に殲滅してしまった。これが、桶狭間合戦や川越夜戦とならんで「戦国三大奇襲戦」の一つに数えられる厳島夜戦である。この戦いにより陶晴賢も自刃して、大内氏と毛利氏の力関係は完全に逆転してしまう。そして、1557年に大内氏、1566年に尼子氏を滅ぼし中国地方全域を支配したのである。

・元就という人物像

 毛利元就といえば戦国の策士として知られている。また、好好爺然とした性格も、一面である。妻を愛し、息子たちを熱心に教育する。言うことをきかない家臣に対しては、へりくだった態度で説得する。そこには、武田信玄のような線の太さもないし、上杉謙信のように颯爽とした姿も見られない。

・教訓状

 元就の望みは、他家を継がせた息子たちが一致団結して毛利家を守ってゆくことだった。「三矢の訓」は後世の創作にすぎないが、弘治三(1557)年に三人の息子に宛てた十四カ条にわたる教訓状がある。息子たちの結束を呼びかけた内容だが、これを見ると、元就がいかに細心な人物だったかをうかがうことができる。そして亡き妻妙玖の弔いのことも、その中に語られている。元就の書状には、この妙玖夫人がしばしば現れる。彼が身内に宛てた手紙を見る限り、毛利元就という男は、妻を愛し、子供たちを気遣った温かい家庭人だったように思われるのである。

-我ら三人 少しにても かけこへたても候はば、只々滅亡と存ずべく- 『教訓状』

参考文献・出典

歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 (学研)

歴史群像シリーズ 図説・戦国合戦集 (学研)

日本史1000人上 (世界文化社)

戦国武将最強は誰だ? (一水社)


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