毛利輝元

出典: Jinkawiki

山陰・山陽に10カ国を領した両国の雄、毛利元就の孫。祖父の死に伴い、19歳で家督を継ぐ。長州藩初代藩主。天文22(1553)~寛永2(1625)


参戦しなかった西軍盟主

 家督を継いだ後、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐(「両川体制」という)を受けて、織田信長に対抗し、信長の部将、豊臣(当時は羽柴)秀吉と諸所で干戈を交える。  30歳を数えた天正10年(1582)、「本能寺の変」直後に、対戦していた備中・高松で秀吉と講和を結ぶ。以後は秀吉に忠勤し、四国・九州の平定に従う。小田原・北条氏攻めに参戦後、天正19年(1591)に、安芸(広島県西部)以下に120万5000石を安堵される。「文禄の役」後に、「五大老」の一に任ぜられる。「慶長の役」時には総大将となった。  関ヶ原の役に、西軍の総大将に担ぎ出されたのは、毛利家の使僧(外交僧)、安国寺えけいの誘致工作によるものであった。安国寺と対立関係にあった従弟の吉川広家は、これに反対したが、安国寺の説得により、西軍の盟主となって大阪城の西の丸に入る。しかし戦いでは終始動くことはなかった。本戦に、養子の秀元と吉川広家が采配する毛利の大軍は南宮山に陣を布いたが、これより先に東軍に内応していた広家が戦闘を抑えたために、これが西軍大敗の一因となった。  戦後、周防・長門36万9000石に削封された。


参考文献

小池徹郎編 「グラフィック図解 関ヶ原の戦い」 2009年9月 学習研究社 M.S


  人間科学大事典

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