民族自決2

出典: Jinkawiki

民族自決権の意義

 自決は民族がその主権を行使しその地位及び国家のあり方を自ら決する行為をさす。独立に関わる前者を外的自決、体制選択に関わる後者を内的自決という。国際関係上の概念として自決原則が登場したのは第一次世界大戦時で、具体的には、1918年にウッドロー・ウィルソン大統領が米国議会で提示した「14か条の平和宣言」にさかのぼる 1。ウィルソンの頭の中にあったのは、ヨーロッパの国際関係を支配した勢力均衡論の餌食となったバルカン諸民族は独立を与えられるべきだという考えだった。もっとも当時の自決原則は一貫した適用がなされなかった。大戦で敗北したオーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国内の諸民族にのみに適用され、戦勝国列強のアジアならびにアフリカの植民地はそのまま維持されたのである。

 ただ、ここで押さえておきたい重要な点が二つある。一つは自決の国際的保証という考え方である。自決原則は自決を自分で実行する力をもたない民族の自決を国際的に保証するというグローバル・ガバナンスとして構想された。もう一つは自決の社会契約的性格である。ウィルソンはバルカン諸民族の自決は忠誠心と国民性の歴史的に形成された線に沿って行われるべきだと述べたが、その根底には、自決の主体たる国民は自然的・客観的な特徴で区別されるというより、歴史の中で形成される主体的意思を基礎におくという見方があった。

 第二次大戦後、自決を保証するグローバル・ガバナンスは発展を遂げた。国連総会が1960年に採択した「植民地独立付与宣言」は、第3項で「政治的、経済的、社会的又は教育的基準が不十分なことをもって、独立を遅延する口実にしてはならない」と述べ、国家成立要件が満たされていなくても独立が承認されることを確認した。そして1966年の二つの人権規約(自由権規約及び社会権規約)は第一条で「すべての人民は自決の権利を有する」と述べ、自決は権利へと発展した。

 しかし、人民の定義が定まらない状況下では、限りなく小さな単位での独立を認めなければならなくなってくる。それを防ぐために、植民地独立付与宣言はその第6項で「国の国民的統一及び領土の保全の一部又は全部の破壊をめざすいかなる企図も、国際連合憲章の目的及び原則と両立しない」と述べ、分離主義に釘をさした。当時の国際関係において、この部分は旧宗主国が新植民地主義的策謀によって分離主義を助長することを戒める意義があったが 2、主権国家間の相互不干渉原則や植民地境界線を尊重するという原則 3と相まって、独立達成後の国家の内部の集団に自決権を認めないことに一定の根拠を与えた。さらに冷戦時代は、陣営内の結束を乱すような動きは抑圧され、民族紛争は長引くばかりで一向に解決をみないといった状況が続いた。

 以上が、第二次大戦後の国際社会で自決が植民地独立に限定され、一旦独立を果たした国の国内の集団が自決を否定されるようになった経緯である。その結果、自決主体の定義は宿題となって残され、冷戦後「分離」の議論へと引き継がれることになったのである。

民族自決権の限界

 分離を希望する全ての民族を独立させた場合にするのだろうか。問題点としてまず第一に民族自決権は属地主義原則に立脚していることである。民族が国家から分離し独立するとなると一定の領域が必要になる。しかし大都市においては民族が混在し、この場合は分離独立の原則を適用することができないのである。また、第二の問題点として民族の混在している年では民族問題が発展するということである。また政治的不安定化も免れない。 こうした問題点が浮き彫りになり民族自決権の実現は決して良いとは言えない。全ての民族が平和に暮らすという道を追求しなければ民族問題の真の解決はありえないと思われる。




参考文献 「冷戦後」 の内戦と 「三つの民族自決論」 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6006/1/HH019403099.pdf

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