水俣病5

出典: Jinkawiki

水俣病とは熊本県の工業都市である水俣市で1953年頃(昭和28年)に発生した有機水銀の一つであるメチル水銀を原因とする中枢神経系を犯す一種の中毒疾患のこと 

目次

水俣病の発見

1956年(昭和31年)4月に5歳女児が歩行障害・言語障害・狂躁状態など脳障害を主訴として新日本窒素株式会社(1964年 【昭和39年】以降社名をチッソに改名)水俣工場附属病院に来院した。その後、同様の症状の患者を多数発見し、病院は同年5月1日に「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と水俣保健所に正式に報告し、水俣病が正式発見された。

主な症状と出現率

水俣病の臨床症状は多岐にわたるが主なものと新日本窒素株式会社水俣附属病院の院長である細川一が行った調査によって発表された出現率を挙げる。 症状            出現率(%)  運動障害           100%  視覚障害          43.3% 言語障害          90.0% 視野狭小          35.7% 知覚異常(手・足が痺れる) 62.5% 精神異常          16.7% アキレス腱 反射亢進    55.6% 知覚麻痺          16.6%

水俣病の感染経路の解明までの流れ

1956年(昭和31年)5月28日に水俣病の調査のために奇病対策委員会が設置された。委員会は水俣病患者が地域的に限局多発していたことから伝染病の疑いで患者の隔離、消毒が行われた。その後、患者が水俣湾沿岸部の農村部落に多いこと、患者は漁業が多く、性別・年齢に関係ないこと 患者の発生には漁獲の変動と軌を一にする季節的変動があること、患者発生地域の食生活の特徴は水俣湾内で漁獲した海産物を主として摂取しているなどの点から湾内の汚染された魚介類を食べることによって感染することが分かった。そして、汚染は水俣湾全域で著しく、特に新日本窒素株式会社水俣工場の排水口付近が著しいため汚染の原因が工場であることが指摘された。

原因物質の解明

汚染の原因物質の解明のため新日本窒素株式会社水俣工場の排水の調査が行われた。しかし、工場排水には約十種類に及ぶ有害物質が含まれており、原因物質の特定は困難であった。1958年(昭和33年)3月に英国の神経学者マッカルパインが水俣を訪れた際に水俣病の症状が英国のハンター=ラッセルが報告した有機水銀中毒に酷似していることを指摘した。これによって、水銀の調査が始まった。調査の結果、水俣病発生時の水俣地区の魚介類・湾内土壌から大量の水銀が発見された。これに加え、水俣病患者およびその家族の毛髪に非常に大量の水銀が検出されたこと、生物体内で水銀が濃縮されていることも判明した。その後、1959年(昭和34年)11月12日に厚生省食品衛生調査会常任会は「水俣病の主因はある種の有機水銀化合物である」とする答申を厚生大臣に行った。

その後の政府の対応

水俣病に関する政府の正式な見解は1968年(昭和43年)9月に「熊本水俣病は、新日本窒素株式会社水俣工場のアセドアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定」として発表された。またこの年、患者の認定(水俣病であるということを認定)申請が相次いだ。

新潟水俣病

第二の水俣病が1965年に新潟市近くの阿賀野川流域で発生した。原因は昭和電工鹿瀬工場の排水に含まれていたメチル水銀化合物が原因であった。政府は先述の熊本水俣病の見解発表の際にこのことについても断定発表している。

引用文献

原田正純 1972年 水俣病 岩波書店 昭和出版研究所 1968年 日本百科事典12 株式会社小学館


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