永仁の徳政令
出典: Jinkawiki
永仁の徳政令
1. 永仁の徳政令
1297年(永仁5年)3月に我が国最初の徳政令が出されている。鎌倉幕府が制定した御家人所領取り戻しを中心とする法である。年号を覚えるときは、皮肉なと覚えることが多い。そもそも文永・弘安の役以降幕府の財政は苦しくなったことがはじまりである。そのとき、恩賞をもらえなかった御家人の暮らしも同時に厳しくなっていく。幕府が御家人を救うためにだしたのが永仁の徳政令である。御家人の経済的破綻は、幕府の根本を揺さぶることになる。御家人の減少はそのまま幕府が保持する武力の現象に繋がるからだ。幕府は、御家人が土地を質入することを禁じたがほとんど守られなかった。御家人救済最後の手段として発令されたのが永仁の徳政令である。また、永仁の徳政令の存在が今日に伝わるのは「東寺百合文書」京函所収の文書からわかる。
内容
1 御家人所領の質入・売却の禁止
2 御家人から買い取った土地は無償で返還すること
3 金銭貸借の訴訟は一切受け付けない
第一条は起訴の停止。起訴とは敗訴者の再審請求つまり控訴である。一度決着した裁判をもう一度やり直すことは裁判の信頼性につながり、コスト増大もつながる。統治という側面は裁判の充実である。統治派の人々はしばしば起訴頭に就任。北条時輔が六波羅探題南方に抜擢されたのも、西国における裁判を管掌する六波羅探題の充実策とみることができる。それを停止するというのは統治の転回である。
第二条がいわゆる徳政令である。債務破棄の命令をいう。このような命令はこれがはじめてではない。古くは文永4年の12月に出され、それは文永7年の5月に撤回されるものの文永10年7月に復活する。そして、弘安7年5月に否定される。徳政令という幕府の根幹に繋がる政策が短期的に二転三転するのは政策を異にする集団、つまり安達泰盛を中心とする統治派と平頼綱を中心とする御家人の利益派の対立を表しているのではないかとされる。大半を占めているこの前半部分は、御家人同士の土地の売却や土地を担保にすることを禁止し、さらに以前の取引にのぼり契約解除を命じている。すでに売却済み、質流れの所領については買得安堵状が下付けされたものと買得後20年を超過したものを除いて、本主に返還することを定めた。また、買主が非御家人、凡下である場合には20カ年以上を経過した所領についても売主による取り戻しを認めた。後半部分は非御家人に売却した場合は年紀を過ぎていようとも除外条件を認めないということで御家人の所領移動の制限がある。
第三条はこれも裁判の簡略化ということで、幕府が雑訴興行つまり民事訴訟の充実という統治の理念から外れる。本来徳政の柱が雑訴興行であった。自力救済という日本中世社会の慣行のしたでは強者が得をし、弱者が損をする。北条重時によって支えられた北条時頼政権は訴訟制度の充実を通じて道理に基づく政治を行おうとした。それは朝廷にも影響を与え東西相呼応して徳政が遂行されることになった。御家人の利益派の政治方針はその後動かなかった。
この徳政令によって土地を手放した御家人は一時的に救われた。しかし、法令は経済的に大きな混乱を招くことになる。買い取った土地が取り返されてしまうため土地を買った人は損をする。土地を買った人たちの中には裕福な御家人もいた。せっかく買った土地を手放さなければならないのは、幕府に対して反感を持つようになるのは当然である。最も打撃を受けたのは借上とよばれた金融業である。彼らは土地の売買や融資が仕事である。徳政令は多くの反発を招いてしまった。幕府はこの状況を打開することができず次第に有力御家人をはじめ民衆の心は幕府から離れていく。借上・土倉からの借金を帳消しにしたり、売った土地を取り戻したりできるもの。皮肉な結果とはこれにおこった借上・土倉が幕府の御家人に二度とお金を貸さなくなって、かえって御家人の生活が苦しくなったこととかけている。 永仁の徳政令は御家人の借金棒引きである。出兵後の出費が増えた中で経済的に行き詰った御家人が金融業者から債務を重ね結果、担保の所領を失う事例がでたので借金を棒引きしたという話だ。(北条貞時が永仁の徳政令を発布し、越訴を廃止するなど強力な政策を打ち出した。)
2. 御家人の暮らし
鎌倉幕府による武士社会の基本構造は、御恩と奉公である。これは、幕府が御家人の土地を保障し、武勲をあげた者には恩賞を与える代わりに、御家人は幕府の軍役を担うという形式である。本領安堵と新恩給与。構造の核となるのが、領地。御家人は土地から生活のための糧を得て、必要な軍約を担う装備と人を用意することが求められた。御家人にとって領地が生きる為の基盤だった。しかし、その考えがかわっていく。分割相続が原因の一つといえる。御家人が亡くなると、その土地は子どもたちに分割して相続された。分割相続だと子どもたち全員に領地が配分されるのでもめることも少なくなる。しかし、この制度は代替わりを重ねると一人当たりの所領が小さくなっていくという欠点があった。御家人の所領は細分化され、必要な軍役を担うので精いっぱいという状況になっている。やがて女性の相続は一代限りとなり、死後は惣領だけが相続する単独相続に変わっていく。こうなると困るのは土地を相続できない庶子である。
そんな状況の中、元寇という非常事態が発生した。幕府は防衛のために惣領だけでなく、庶子や非御家人も動員した。さらに、異国警固番役は惣領と庶子が別々に努めることを認めた。従来の伝統であった惣領生を崩すものとなる。元寇を経て少しずつ庶子も一人の御家人であるかのような独立意識が強まっていく。元寇に参陣した御家人の多くは十分な恩賞をもらうことができなかったためにますます経済的に困窮するようになり、しまいには土地を質に入れて手放す者まで現れるようになったため、永仁の徳政令が出された。
3. 参考文献
1297 永仁の徳政令 http://rekishinendai.blog10.fc2.com/blog-category-137.html (2011.1.15参照)
yahoo!百科事典 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B0%B8%E4%BB%81%E3%81%AE%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4/ (2011.1.15参照)
我が九条 http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20080815/1218765743 (2011.1.15参照)
北条貞時 http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/houjyousadatoki.html (2011.1.15参照)
永仁の徳政令 http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/tokuseirei.html (2011.1.15参照)