永倉新八
出典: Jinkawiki
永倉新八は、天保10年(1839年)4月11日、松前藩江戸定府取次役の永倉勘次の子として江戸下谷に生まれた。そういう生まれのせいか、農民出身の近藤勇とは、そりの合わない面もあったが、文久2年(1862年)の幕府が浪士組を募った時、近藤らとともに、応募した。 そして、文久3年(1863年)3月、京都・壬生村の八木宅で新撰組が誕生したとき、芹沢派が5名、近藤派が8名で後者の近藤派に永倉新八が入っていた。当時25歳だった。池田屋事件では、負傷をしたが、刀が折れるまで激闘し、近藤・土方の片腕となり、副長助勤、また2番隊隊長として、常に第一線で戦った。また、攘夷という点では引けをとらない人物だったが、勤王・尊王という点ではどうだったのかは定かではない。禁門の変では、新撰組も苦戦し、永倉は股を負傷した。鳥羽・伏見の戦いでは、敗戦し、甲府城を取られまいと、手に入れるべく、甲陽鎮撫隊を組織し、甲州へ向かったが、ここでも敗戦し、新撰組に退潮の時が来た。その時、ほとんどが離隊し、残ったのは、永倉、原田、島田ら10人ほどであった。ここで、新撰組は局長の近藤・土方と行動をともにしようとするものと、永倉・原田らの剣客芳賀宜道を隊長とする精兵隊に分かれた。ちなみに、精兵とは「戦をやめる」という意味である。そして、永倉・原田のそれからの戦いが始まる。野州、奥州と転戦し、苦戦したあげく会津へ行く。だが、ここでも会津落城にいたり、各地を徘徊した後に江戸に帰った。 この後、松前藩の医師杉村松柏の娘よねの婿におさまり、杉村義衛と改名した。そして、明治4年に松前藩が館藩と改名したあと、同藩の組織した、継述隊の小隊曹長となり、藩兵を訓練した。 明治9年、新撰組隊士の消息を訪ねる落ち着きを取り戻した永倉は、東京の板橋に近藤・土方氏の追悼碑を建立し、追悼碑の両側には、旧藩士の名前も刻まれた。その後、永倉氏は北海道に渡り、樺戸監獄の剣道教師をつとめ、明治19年に退職、上京して剣道場を開いた。 大正4(1915)年1月5日、虫歯の悪化による骨膜炎、敗血症のため北海道小樽において病没。享年76歳だった。
参考文献:新撰組~動乱の幕末 剣に生き、剣に死す~ 松浦玲 著
新撰組全史 木村幸比古 著
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