沖縄返還

出典: Jinkawiki

 沖縄では戦後の数年間は日本復帰を唱えることは一種のタブーであった。1950年、対日講和が日程に上るようになり、沖縄の地位をめぐって復帰論が高まるようになった。1951年になると沖縄の帰属問題について、各政党とも態度を決定した。その年、沖縄群島会議が帰属問題を緊急議題として取り上げ、賛成多数で「日本復帰」を決議している。  社大党と人民党が党大会を開いて日本復帰運動の推進を決議し「日本復帰促進期成会」を結成した。続いて、社大党の「新進会」が主体となって結成された「日本復帰促進青年同志会」が生まれた。両組織が全島的に署名運動を展開し、有権者の72,1%の署名を集めた。8月、対日講和条約が始まろうとしていると、群島政府知事と群島議会はダレス米特使と吉田首相は講和会議長などににあてて復帰要求の電報を打ったが、対日講和条約は県民の意志を無視し調印された。  日本復帰尚早論もあり復帰組織は自然消滅したが、1952年暮れごろ教職員会を中心に祖国復帰期成会を結成した。1953年1月18日には、那覇劇場で4千人が集まって盛大な決起大会が行われた。全県民的立場で結集する統一組織を作る必要性を感じ、1960年4月28日に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、50団体の大組織に発展した。  沖縄返還問題が日米両政府内で真剣に検討されるようになったのは1966年からで、米政府内では同年6月に沖縄特別班が設置されて沖縄返還に関する討議が開始された。1965年8月、佐藤栄作首相は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない」という名言を吐いた。1966年8月、大浜信泉を座長として沖縄問題懇談会を設置した。1967年11月、佐藤・ジョンソン首脳会談後の共同声明では、小笠原諸島の返還だけが合意され、沖縄については、「ここ両3年内」に日米双方が満足しうる返還の時期を決めることになった。日米間交渉は1969年6月の愛知外相訪米に始まり、同年11月の佐藤・ニクソン会談まで続けられた。1969年11月21日、佐藤栄作・ニクソン両首脳は1972年の沖縄返還に合意する共同声明を出した。 1972年5月15日、核の有事持ち込み、事前協議の弾力的運用、朝鮮半島や台湾の防衛などに関する日本側の譲歩によって沖縄県祖国復帰が実現した。  沖縄本土不復帰後は、通貨がドルから円になり、車両も左側から右側通行に変わり、直後は交通事故が多発した。

参考文献 ・NHKスペシャル戦後50年その時日本は 第4巻 NHK取材班 NHK出版 ・沖縄を知る事典 「沖縄を知る事典」編集委員会 日外アソシエーツ


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