法然

出典: Jinkawiki

目次

概要

 法然房源空(1133年~1212年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の僧である。はじめ比叡山で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)に阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然房源空の「法然」は房号で、「源空」は諱である。幼名は「勢至丸」。


浄土宗の開宗

 法然は1175年(承安5年)43歳の時に、中国浄土教の僧である善導が記した『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進み、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。のちに延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなどしだいに勢力を広げた。


一枚起請文

 唐土我が朝に諸々の知者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にも非ず。 また学問をして 念の心を悟りて申す念仏にも非ず。ただ往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、 別の子細候わず。但し三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ううちにこもり候也。 此外に奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくゝ学すとも、 一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

証のために両手印をもってす。

浄土宗の安心起行此一紙に至極せり。源空が所存此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義を防がんがために所存を記し畢。

    建暦二年正月二十三日      大師在御判

『一枚起請文』は、1212年(建暦2年)に法然が亡くなる直前に、弟子の一人である源智上人の要請によって、書いたものである。内容は、浄土宗の教義である念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明されている。法然の誓いの文章であることから「御誓言の書」とも呼ばれ、大本山金戒光明寺に丁重に保存されている。


法然の生涯

1133年(長承2年)美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の豪族であった漆間時国のもとに生まれる。(幼名:勢至丸)

1141年(保延7年)父:漆間時国が明石定明の夜襲により没する。(法然9歳)

1145年(天養2年)比叡山に登る。(法然13歳)

1147年(久安3年)西塔北谷の持宝房源光について受学し戒壇院で戒をさずかり出家する。(法然15歳)

1150年(久安6年)西塔黒谷の慈眼房叡空に師事する。

         持宝房源光の源と慈眼房叡空の空をとって、法然房源空と改名する。(法然18歳)

1175年(承安5年)阿弥陀仏の本願の真意感得し浄土宗を開く。(法然43歳)

1186年(文治2年)南都北嶺の僧達と洛北大原勝林院にて問答する。大原談義。(法然54歳)

1198年(建久9年)選択本願念仏集1巻を著わす。(法然66歳)

1207年(建永2年)四国に配流となる。(法然75歳)

1211年(建暦元年)京都に召還される。(法然79歳)

1212年(建暦2年)一枚起請文著わす。

         没80歳。


参考・引用

『法然入門』 阿満利麿著 ちくま新書

浄土宗 http://www.jodo.or.jp/

ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成