津田左右吉

出典: Jinkawiki

津田左右吉(つだそうきち) (1873―1961)


経歴

明治・大正・昭和期の歴史学者、思想史家、文学博士。本名親文(ちかふみ)。明治6年10月3日、岐阜県加茂(かも)郡下米田(しもよねだ)村(現美濃加茂(みのかも)市)東栃井(ひがしとちい)で、尾張(おわり)藩家老竹腰家の旧家臣津田藤馬(とうま)の長男に生まれる。名古屋の私立中学を中退し、1891年(明治24)東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)邦語政治科を卒業。沢柳政太郎(さわやなぎまさたろう)の庇護(ひご)を受け、白鳥庫吉(しらとりくらきち)に紹介され、白鳥の西洋史教科書に協力するとともに、千葉、独協(どつきよう)などの中学教員を歴任。1908年(明治41)に白鳥が開設した満鉄の満鮮歴史地理調査室研究員となった。ここにおいて満蒙(まんもう)・朝鮮の歴史地理的研究を行い、13年(大正2)に『朝鮮歴史地理』上下を刊行、調査室での文献批判的実証研究の経験と討論は、学問的研究の出発点となった。また20世紀に入ったころから、諸雑誌に試論を発表するなど関心を深めていた国民思想の研究は、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』四冊(1916~21)となって結実し、日本歴史の大勢を背景として、単に文芸作品のみでなく、広く美術・芸能をも含めて国民の思想・文化・生活の展開を通して、国民思想が中国思想など外来の思想の影響を受けつつ、独自のものを展開してきたことを跡づけた。思想史研究の一面としての『古事記』『日本書紀』の文献批判と、歴史的事実追究の研究は、13年の『神代史の新しい研究』を皮切りに、『古事記及び日本書紀の新研究』(1919)で方法的確立をみた。関東大震災後、この二著は『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』(ともに1924)として補訂再刊され、さらに徹底した文献批判に立脚して古代史の再編成に進み、『日本上代史研究』(1930)、『上代日本の社会及び思想』(1933)をまとめて、古代史研究の基礎を築いた。


また、中国思想の史的研究にも大きな功績がある。『道家(どうか)の思想と其(そ)の開展』(1927)、『左伝の思想史的研究』(1935)、『論語と孔子の思想』(1947)などを生み、晩年には『シナ仏教の研究』(1957)を著した。このような学究生活にあって、1940年(昭和15)右翼思想家の攻撃を受け、記紀研究の主要四著作が発禁となり、岩波茂雄とともに出版法違反で起訴され、17年より出講していた早稲田大学を辞職した(42年第一審有罪判決、44年免訴)。戦後この四著作を補訂再編して刊行し、さらに時事評論や歴史観などの論文を多数発表したが、なかでも46年(昭和21)4月号の『世界』に載せた「建国の事情と万世一系の思想」は、敗戦直後の天皇制論議のなかで注目された。


参考文献

旺文社『日本史事典』

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E5%90%89/


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