浮世絵
出典: Jinkawiki
概要
近世の大衆文化の一つ。近世の浮世思想による新たな風俗画として創始。当時流行していた髪型や衣装、文物などが書き込まれていた。源流として考えられるものに、寛政美人画、草子の挿絵の二つが考えられる。 明暦三年(1657年)の正月、江戸は大火のため市街地の60%以上が焼け野原となった。新しい都市計画による復興の気運のなかから、新しい町人的なものが文芸や美術の面で出現した。これを代表するものの第一が浮世絵である。 浮世絵の「浮世」とは、元和偃武により平和になった現世をひたすら謳歌する姿勢を示している。それまでの中世的無常観である「憂世」の姿勢から訣別した態度、すなわち現世を楽土と見る考え方、つまり近世的「浮世」へと価値観を変じたところから起きたものの見方であった。そしてそれが、絵画の世界にも投影されて、浮世絵が成立した。
絵師と移り変わり
開祖といえる絵師に菱川師宣(1618~1694)がいる。彼により、挿絵に署名するという風が始められた。肉筆画の「見返り美人」や、吉原風俗を描写した揃い物の墨摺り絵「吉原の躰」12枚や、絵本の『和国百女』『月次の遊び』などに絵筆をふるい、浮世絵の版画化に大きな功績を残した。版画化により、値段の安くあがり、浮世絵が歓迎され市民に広く普及する大きな理由となった。 師宣につづく奥村政信(1678~1764)は絵師であるとともに版元を兼ねた。従来、墨一色摺りであったものに筆彩色を加え、また紅・草の二色で色刷りにする紅摺絵の出現に貢献。 錦絵の創始期に活躍した鈴木晴信(1725~1770)は、それまでの画材の中心が遊女であったのに対し、一般婦女子の日常生活をテーマに美人画に新風をうみだした。その頃、一筆斎文調(作画1764~1780)や勝川春章(1726~1792)により役者の似顔絵が普及し、芝居好きの人々に喜ばれ、浮世絵をさらに庶民生活のなかに溶け込ませた。やがて、特異な東洲斎写楽(生没年不詳)が彗星のように現れるが、今日まで多くの謎を残したまま、わずか10ヵ月の間で喪失した。 浮世絵の頂点は喜多川歌麿(1753~1806)がでて頂点に達したといえる。彼の美人画は写楽の役者絵、北斎の風景画などとともに国際的に評価が高い。 役者絵や美人画に対する幕府の取り締まりは、一方で風景画を盛んにした。葛飾北斎(1760~1849)や歌川広重(1797~1859)がその代表である。退廃的な要素になりがちな遊女絵と異なり、風景画は一般家庭に入りやすく、浮世絵愛好者層を江戸から広く地方にまでひろげ、浮世絵の普及・庶民化に大いに貢献した。特に、広重によって日本的な浮世絵風画が完成したといえる。 歌麿以後の美人画は、渓斎英泉(1790~1848)・歌川豊国(1769~1825)・歌川国貞(1786~1864)に受け継がれていった。
戯画
江戸時代末期になると、浮世絵に時事や報道が取り入れられる。戯画として描かれたものの中には、政治や社会を諷刺したものが少なくない。特に歌川国芳(1797~1861)は、天保改革を諷刺した「源頼光公館土蜘作妖怪図」をはじめ、戯画の名のもとに幕閣などを諷刺した作品をいくつも残している。将軍や幕閣などを揶揄し、時勢を諷刺したと評判を高めなければ浮世絵の販売は思うように伸びないという、当時の出版事情がその背景に存在していたのだ。 幕末には、幕府の諸藩の動向を戯画として描きながら、鋭く諷刺したものが次第に多くなる。江戸は幕府に同情的であったのに対し、上方の出版物は薩長贔屓なのが好対照である。
参考文献
竹内誠編 『日本の近世14 文化の大衆化』 1993年 中央公論社
倉地克直 『江戸文化をよむ』 2006年 吉川弘文館
NHKデータ情報部編 『ヴィジュアル百科江戸事情第四巻 文化編』 1992年 雄山閣出版