清・チベット戦争
出典: Jinkawiki
何世紀にもわたって、中国皇帝はチベットの精神的指導者ダライ・ラマを支持していた。これは、西部国境での軍事蜂起を防ぐためには賢明な策だった。18世紀初め、清は駐蔵(チベット)大臣という代表者2人をチベットの首都ラサにおいた。1750年、駐蔵大臣はチベット統治者の暗殺に手をかした。このためチベット人は非常に怒り、ラサにいる清国人を皆殺しにした。乾隆帝(1711-99)は山岳地帯にあるチベットの王国に軍を派遣し、秩序を回復した。清の権力はふたたび確立されたが、これはダライ・ラマの政治行動と後継者指名の決定権を駐蔵大臣が支配することによるものだった。清は同時に、タシルンポ寺に住むチベット第二の宗教的権威パンチェン・ラマに多大の支援を送り、ダライ・ラマに対抗し彼を抑えるために利用した。
ダライ・ラマ…チベットのラマ教法王の尊称。黄帽派に属し、開祖ツォン・カ・パの後継者。
パンチェン・ラマ…チベットの政治、宗教の最高権力者。ラマ教黄帽派の首長。ツォン・カ・パの高弟ケーブルの系統の転生ラマで、阿弥陀仏の化身とされる。
参考文献 『世界戦争事典』2014 ジョージ・C・コーン 河出書房新社
『世界史事典』1995 平凡社教育産業センター 平凡社