清水卯三郎

出典: Jinkawiki

目次

概略

清水卯三郎(しみずうさぶろう)(1829年3月4日-1910年1月20日)は羽生村(現在の埼玉県羽生市)に生まれた出版・貿易商の実業家である。オランダ語、ロシア語、英語を話すことができ、薩英戦争に日本人としてただ一人イギリス側から参戦したり、一般商人としてただ一人パリ万国博覧会へ出品をしたり、非常に高い向学心・好奇心の持ち主である。

誕生

文政12年(1829年)3月4日、羽生領(現羽生市)町場村きっての名主清水弥右衛門誓一(しみずやうえもんちかかず)の3男として、現在の羽生市中央4丁目入山乾商店の敷地内で生まれた。
卯三郎という名前は父親が付けた。由来は岩槻城主大岡主膳正(おおおかしゅぜんのしょう)の家来に卯三郎という名前の人がおり、彼は努力をして出世した人であったため、そこにあやかり将来偉大な人物になることを願って付けたといわれている。

清水家

先祖は小田原北条氏に仕えていた武士だったが、清水雅楽助輝央(しみずうたのすけてるなか)が日本鉢石を経て羽生に転居してからは酒造業を営み、財を成した大変な資産家であった。「商人に学問は要なきもの」と考えていた。
家訓に困った人々には進んで物品を与えるというものがあった。しかし世間に名高くなることはまったく求めていなかったため、地域の人たちからは信頼され、尊敬されていた。打ちこわしや、維新のころに名家や大きな家が多数打ちこわされても、「清水の家は壊すな」と免れた。

幼少期

卯三郎は幼いころは勉強を好まず、いたずらにおいては人並みはずれていて腕白だったようだ。清水家の子どもは10人おり、卯三郎の腕白は11歳になってもおさまらず、家人が手を付けられず手を焼いた。少しでもそれがおさまればという理由と、清水家は子どもが多かったことから、母方の実家である吉見郡甲山村(現大里郡大里町)の根岸家に預けられた。そこで漢学の塾に通っていたが、親から送られた小遣いを使い果たし、更に晴れ着を質に入れてそれも使い果たし、塾の先生を驚かせた。先生はこの状況を根岸家の当主根岸友山に手紙で知らせた。友山はその手紙を卯三郎に与え、卯三郎は生涯それを手元に置き反省の材料にした。その後、江戸を含め、親類に3度預け替えされている。
卯三郎最後の預け先は祖母の実家、奈良村(現熊谷市大字下奈良)の名主吉田一右衛門(よしだいちえもん)宅であった。14,5歳の卯三郎は親や兄に連れられて、栗橋へ将軍の行列を見学に行ったり、江戸で異国情緒豊かな琉球使節を見たりし、狭い郷里の枠から未知の世界への熱い思いと憧れを持つ。


学問

漢学

川俣村の名主堀越蔵之助(ほりこしくらのすけ)が息子や近所の子どもに学ばせるため、江戸から森玉岡(もりぎょっこう)を漢学の講師として招き、学塾を開いた。そこへ17歳の卯三郎は兄恒吉と通い、学ぶ楽しさを知り、ようやく学問に打ち込み始める。そして卯三郎はもっと勉強したいと思い、漢学の本が多数整い、時々漢学の師が訪れる甲山の根岸家は最適だと考え、伯父友山に頼み再度勉強に打ち込んだ。このとき、根岸家に出入りしていた学識の人から、漢学のほかに数学、円理学術、舎密(化学)の術も学ぶ。また、熊谷寺の和尚から、楽焼の技術や絵の具のもとなども学ぶ。

蘭学

甲山の根岸家で卯三郎が勉強する2階の部屋の天井にオランダ語の格言が書かれたものが貼ってあった。それを読めたら面白いと思うが、教えてくれる人がいなかったためそのままだった。これがオランダ語を学ぶ動機だったようだ。嘉永2年(1849年)6月によき理解者だった母お貞を亡くし、21歳の卯三郎は悲しみの日々を過していたが、それを断ち切るように新たにオランダ語の習得を志して、江戸の寺門静軒(てらかどせいけん)をたずねる。静軒から紹介状をもらい、千葉佐倉の佐藤泰然(さとうたいぜん)という蘭方医を訪ねる。頼み込んで2晩泊めてもらい、オランダ語学の入門書の手ほどきを受け、ABCの文字を書いてもらい大変感激する。その後根岸家に戻り、大槻玄沢著蘭学入門書の『蘭学階梯(らんがくかいてい)』と蘭日辞書の『訳鍵』をたよりに蘭学に打ち込むが、漢文に親しんでいたため異なる構文の蘭学を勉強するのには非常に苦労したようだ。
嘉永6年(1853年)、プチャーチン率いるロシアの艦隊が下田に来航した際、幕府が談判のため役人を下田に派遣していた。その中に翻訳方で蘭学に優れている箕作阮甫(みつくりげんぽ)という人がいて、卯三郎は彼こそが教えを受ける師だと見込み、友山に頼み役人になり下田へ行った。現地へ行った3日後に箕作阮甫をたずね、教えを願い、娘婿の秋坪を紹介される。そして秋坪の経営する箕作塾への入塾が許可され、そこでの勉強はオランダ文法の本『ガラムマチカ』の解読からはじまり、2ヵ月後に成文法の本『セインタキス』から『ヘンチィヤンティ』へと進んだ。「ガラムマチカを1ヶ月の間に読み習いしは、君と佐久間象山のみ。」と師から言われたという。
勉学資金の蓄えが尽きると羽生に戻るが、それからも勉学に励んだ。

ロシア語

プチャーチンが下田へ来航した際、卯三郎も役人として下田へ行く。そこで公務の傍らロシア人からロシア語を習い、わずか100日間の滞在中に約250語を暗記する。
船から降りてきたプチャーチンに覚えたばかりのロシア語「ヒャアリコウ(寒いですね)」と叫び、プチャーチンから「ダァ(はい)」と答えられた。

英語

31歳の卯三郎は甲山の根岸友山の弟圭次郎にオランダ語の学力を買われて横浜村(現横浜市)に「伊勢徳」を出店、主に大豆の売買を始めた。しかし、当時横浜村で使われていたのはオランダ語ではなく、英語で、卯三郎が苦労して体得したオランダ語が通じなかった。
立石斧次郎(たていしおのじろう)と出会い、ハリス公使の書記官ポルトメンが日本語の教師を必要としていることを知る。卯三郎がポルトメンに日本語を教え、ポルトメンから英語を学び、立石は卯三郎から漢学を学ぶという仕組みで、ポルトメンから3円の教授代を受け取り、食事は卯三郎と立石が共にするという条件であったため、ハリスの住んでいる麻布の善福寺に立石と共に移り住み英語の習得に励んだ。もちろん卯三郎の大変な努力があったためだが、英語はオランダ語と構文が似ており、横文字で、アメリカ人から直接学ぶ機会があったこともあり、効率よく習得する。

  • 英会話辞書を発行

翌年の万延元年(1860年)に商人用英会話辞書『ゑんぎりしことば(上下2巻)』を出版する。発音をカナ文字で表し、RとLの発音を区別している工夫がある。辞書の内容は「まえがき」「こゑつかいかた」「巻の上」「巻の下」で、巻の上には名詞1124語が、下には代名詞12語と形容詞・副詞101語、短文17頁298文、会話6頁が収められている。商人に人気があり、海賊版『飛良賀奈 英米通語(ひらかな えいべいつうご)』が出回った。


薩英戦争での活躍

イギリス艦に乗船

文久2年(1862年)薩摩藩主島津久光の行列が、生麦村に差し掛かった際、英国商人リチャードソンらが、騎馬のまま行列前を通過しようとしたことに藩士が腹を立て、4人を殺傷した事件がきっかけで、翌年薩英戦争が始まる。
イギリス側は通訳にはアレキサンダー・シーボルトがいるから困らないが、薩摩から日本文の書簡が出されたときにこれを読み、英訳できる者が必要だということで、日本人の同行を頼んできた。卯三郎はオランダ語、ロシア語、英語の3ヶ国語が出来、漢文の素養も十分で、さらに薩摩藩に属さず、幕府の役人でもない中立の立場だということで選ばれ、それに応えて日本人としてはただ一人、英旗艦に乗って横浜から薩摩に出かけたのである。このとき35歳だった卯三郎は、英旗艦ウーリアラス号に乗り込み、薩摩藩の資料の翻訳などに関わってこの戦争を目撃する。

松木弘安・五代才助を救出

戦争中に薩摩藩の汽船天祐丸と白鳳丸、青鷹丸が焼かれ、船長だった松本弘安(後の寺島宗則)、五代才助(後の友厚)はイギリス側の捕虜となる。松木は卯三郎が英語を学んでいたころからの知り合いであり、五代とは長崎で知り合った。特に松木の語学力と人格に尊敬をし、師弟関係であった。2人を救助するために、アメリカ領事館の書記生ヴァン・リードと相談し、クーパー提督に申し出て、2人は無事釈放される。
ヴァン・リードが用意してくれた小船で横浜港から羽田村、江戸小舟町を経て2人を変装させ、大宮、桶川を通り、祖母の実家下奈良村(現熊谷市)の吉田家に1年間かくまう。その後2人とも帰藩が実現した。

薩英和平交渉

薩摩は大久保一蔵(後の利通)を通じて、卯三郎に休戦交渉を依頼した。イギリス公使ジョン・ニールは卯三郎のような身分の軽いものが代表では重要な交渉には応じられないと言った。卯三郎は腹を立て、「私は薩摩藩から談判の委任を受けているのだから、私で十分だ。」と言うと、これを受けイギリス公使も交渉に応じた。談判は成功しなかったが、これがきっかけとなり薩英戦争は11月1日に薩摩がイギリスに25000ポンドを支払い、和平が成立する。
一介の商人に過ぎない卯三郎に大久保が藩の大役を頼んだことは、彼の同時通訳の実力がすばらしかったことを示している。英・蘭・露語が堪能で、読み書き会話が出来、教養がある卯三郎は貴重な人材だったようである。


パリ万国博覧会

西暦1867年5月1日から11月3日までの半年間で入場者が680万人と、過去最高であった。

博覧会への出品

慶応元年(1865年)、フランスは幕府に対して2年後にパリで開かれる万国博覧会に参加するよう要請してきた。幕府は諸藩をはじめ、一般の商人にも出品を呼びかけた。たまたま箕作秋坪を訪ねていた卯三郎はこの話を聞き、大いに心を動かし、万博への出品を決意し、慶応2年2月に幕府の勘定奉行小栗上野介に願いの文を提出した。「恐れ乍ら、御國柄に相叶い候様、精々心力を盡くし、良好の貨品を差送り、外國之耳目を驚かし、御國恩之萬一に報じ奉り度く」と、大変な意気込みであった。そして幕府から2万両を借り、刀剣、火縄銃、弓矢、陣羽織、酒、醤油、茶、化粧道具、鏡、人形、屏風、扇子、提灯、木彫り、釣道具、農具に至るまで、さまざまな品物をそろえた。
出品点数は幕府が187箱(出品金額47200両)佐賀藩506箱、薩摩藩506箱、江戸商人清水卯三郎が157箱(32700両)であった。この博覧会に日本から出品したのは幕府のほかに佐賀藩と薩摩藩、そして卯三郎だけであった。

茶店

卯三郎の発案で、日本館に茶店「水茶屋」を設ける。ヒノキ造りの6畳間で、土間があって周りは植木や風俗人形を飾り、日本庭園に緋毛氈(ひもうせん)をひいた縁台を置いたものだった。座敷では日本から連れてきた浅草柳橋の芸者かね、すみ、さとの3人に友禅縮緬(ちりめん)に丸帯という姿で茶菓の接待をさせた。その立ち居振る舞いはいかにも可憐で優にやさしく、この意表をついた道具だては西洋人に大いに受け、人気を呼んだ。

銀メダル受賞

1876年(慶応3年)7月1日午後2時からパリ産業館で、博覧会に優秀な品を出した者への賞牌授与式が挙行された。ナポレオン3世を中心に、将軍徳川慶喜の名代で博覧会に列席していた昭武を含む各国からの国賓・貴族・実業界の巨頭らが美しく参列した様子は、19世紀最大の行事と言われ、ヨーロッパにおけるフランスの偉大さを示すに十分なものであった。
当日、授与された賞(数字はその数)は、大賞牌(グランプリ)64、金牌883、銀牌3553、銅牌6565、褒状5801であっる。日本の出品者に対しても、大賞牌・銀牌・銅牌・褒状が授けられ、卯三郎にも名入り(OUSABOURO)の銀牌が授与される。直径5.1センチ、重さ70グラムもある立派なものである。

万博後

博覧会閉会後、卯三郎は現地で出品物の販売を試みるが必ずしも高くは売れず、商売という点からみると成功のみの万博参加ではなかったようである。
彼はパリからただ一人アメリカを回って帰国したが、その間に大変多くのことを学んだ。活版機械、石版機械の輸入、陶器着色法の導入、鉱石鑑別法の導入、西洋花火の輸入、歯科機器についての知識など、多岐にわたっている。

新技術の導入

  • 活版印刷機

パリ万博会場で、卯三郎はニューヨークのジョッピング会社製の足踏み活版印刷機を見、気に入る。卯三郎は、明治5年(1872年)に我が国で初めてこの印刷機を輸入し、自店瑞穂屋の店頭に陳列する。この印刷機がたまたま東京日々新聞(現在の毎日新聞)の発行を企画していた條野伝平や岸田吟香の目に止まる。彼らは新聞印刷はこの印刷機でと考えがるが、750円という高値に手が届かず、第一号からの初期の段階は、機械を借りて瑞穂屋の店先で新聞印刷した。なお、東京日々新聞第一号は「明治5年2月21日発行」である。その後、分割で代金を払い、その印刷機は新聞社の保有になった。

  • 石版機械

卯三郎は石版印刷機の輸入も日本で最初に行った。最初の印刷は明治2年『萬國奇想』という題字である。筆者の書体がそのまま印刷された最初の石版刷りを見た人々は感嘆したと『中外新聞』が報じる。

  • 陶器着色法

フランス滞在中に方法を学び、薬品などを持ち帰り陶器着色に成功する。

  • 西洋花火

フランスから持ち帰った花火を自宅前で試用したところ、西洋花火を知らない当時の人々は火事かと慌ててしまい、卯三郎は役所から注意を受ける。しかし「花火を知らないで驚いたのは人々の知識が足りないからで、私の責任ではない。」とすまして言ったという話がある。
フランスやアメリカで目撃した花火の見事さが忘れられず、明治14年に、イギリス人の著した本を翻訳して『西洋烟火の法』を出版する。

  • 歯科器械の輸入・販売

ヨーロッパからの帰路のアメリカで最も驚いたのは歯科用品の斬新さであった。瑞穂屋の裏で歯医者を営んでいた高橋虎一から依頼を受けて、明治8年(1875年)にアメリカのサミュール・S・ホワイト社から歯科器械を購入したのが我が国初輸入である。
明治20年代になると、輸入にとどまらず、わが国初の歯科器械工場を作り、足踏みエンジンや治療椅子までも製作・販売する。明治24年には「歯科雑誌」を創刊し、歯科医学の発展に寄与したが、この雑誌は明治38年、通巻110号まで続いた。他にも、歯科関係洋書を翻訳して出版したり、数々の歯科関係図書の刊行を行ったりした彼の歯科医療界に及ぼした功績はたいへん大きいものである。

建白書の提出

パリの万国博覧会に参加して卯三郎は、日本の文化向上のためには日本で万博を開く必要があると考え、帰国して5年後の明治5年2月に建白書を新政府に提出する。その中で、「愚臣曽テ佛國博覧會ニ列シテ頗其事實ヲ知ル因テ以テ一生ノ間一回此ノ博覧會ヲ起シテ天下萬民ノ識見ヲ弘メ追日全國ノ利潤ヲ謀リ卓トシテ英佛ノ右ニ出ン事愚臣ノ素願ナリ」と述べ、ぜひとも我が国で万国博覧会を開催して、国民の識見を弘め、もって英仏よりもさらに文明の進んだ国にすることが、私卯三郎の日ごろの願いですと訴える。これを受けた政府は、時期尚早ということで却下、同年8月13日に卯三郎にその旨を返答。昭和45年に大阪の千里丘陵を会場として日本万国博覧会が開催される98年も前の出来事であった。

すごろくの出版

帰国した卯三郎は、明治3年に「第千世界国盡壽語録(くにづくしすごろく)」を出版する。自ら世界一周してきた経験をもとにして、世界120の国や都市などの位置、特色、産物などを詳細に解説している。当時の日本人の多くは、世界の地理に不案内であった。そんな中で女性や子供が双六で遊びながら世界に目を向けようとさせるものである。文章を書いたのが瑞穂屋つまり卯三郎で、松木平吉が版画印刷をした極彩色の非常に美しいものである。羽生市郷土資料館に所蔵されている。

かな文字を推奨

1863年の夏、薩英戦争に卯三郎は書簡の翻訳係りとして日本人としてはただ一人英艦に乗り込んで横浜から鹿児島に向かった。その艦内で、夕暮れてあたりが暗くなった頃、舳先の灯りの下で本を読む一人の若者がいた。その若者は「これは船乗りの技術を書いた本だが、私はこのような本をたくさん読んで、将来は提督になるつもりだ。」と言う。卯三郎は、日本の文字は難しい漢字が多く、その若者と同じくらいの歳の者には読むことができないと考え、誰にでも読めてしかも理解できる平仮名を使うべきだと主張するようになる。明治7年の1月には、イギリスの化学の本を翻訳した「ものわりのはしご(全3巻)」を出版し、同年5月の「明六雑誌第7号」には「平仮名ノ説」を発表して、平仮名書きの長所を力説した。そして自ら「ゑんぎりしことば」の平仮名で書き、普及に努めた。

晩年

明治29年(1868年)に68歳の卯三郎は子息の連郎(むらじろう)に家業を譲って隠居。

わがよのき

明治31年(1898年)6月、70歳の卯三郎は自分の人生を省みた自叙伝『わがよのき 上』を書き始め、翌年5月に書き終える。出生から慶応3年(1867年)1月に万国博覧会参加のためにフランスに向けて横浜を出港するまでの前半生が収められている。和紙を2つ折りにし、毛筆で12行ずつ、平仮名で丹念に書かれ、総枚数は118枚である。後半生を書いた下巻は見つかっておらず、卯三郎が書いていたか否かも疑問視されている。

旧浅草区松葉町乗満寺に葬られたが、関東大震災後に乗満寺は世田谷区北烏山に移った。明治43年11月には、生前の功績によって賞勲局から銀杯1個が下賜される。卯三郎家3代・7人の墓が並んでいるが、中央の高さが3メートル余りの墓碑には、「しみづうさぶらうのはか」と大書され、平仮名論者であった彼は想いを遂げている。
同墓地内に、歯科時報社社長中安順次郎の発願で建てられた高さ1.2メートルほどの墓史碑があり、彼の歯科医学に与えた功績がたたえている。
「清水卯三郎は埼玉県羽生村の人 若くして江戸に出で屋号を穂積屋と称し洋書の販売を業とする傍ら 明治八年米国より歯科器材を輸入販売した 之が本邦歯科器材販売業の嚆矢で氏はその元祖である 昭和三十五年九月二十日建之 歯科時報社社長 発願人 中安順次郎」
しかし、卯三郎の孫夫婦には子がいなかったため後継者がなく、無縁仏となってしまう。だが、平成10年、出身地羽生市民の願いで、地元の正光寺に墓が移転された。

関連人物

根岸友山

根岸友山(ねぎしゆうざん)は、卯三郎の母お貞の兄で、卯三郎が最も影響を受け、尊敬していた人物である。
11歳の卯三郎は、母の実家の吉見郡甲山村(現在の大里郡大里村冑山)にある根岸家に預けられる。根岸家はこの地方の大地主で豪農だった。文化11年の記録によると甲山村の村高389石のうち、252石が根岸家のもので、実に64.8%を所有していた。安永年間に約30名、天保年間で18名ほどの奉公人がいたといわれている。漢学の師、寺門静軒や安藤野雁などの学者も多数来歴していた。清水家において商人に学問は必要ないとされていたが、預けられた卯三郎は、この根岸家で大きな衝撃を受け、それが学問へ取り組むきっかけとなる。
母の兄、根岸友山は儒学を北本北山と寺門静軒から学び、剣を千葉周作から習い北辰一刀流に優れていた。自邸に私塾「三餘堂(さんじょどう)」と「振武館」を設立し、郷党たちに文武の道を教える。(三餘とは、読書に適した3つの暇なときの意味で、冬(歳の余り)、夜(日の余り)、陰雨(時の余り)を意味する)今も根岸家邸内には、「三餘堂跡」の標識が立ち、大里村指定文化財となっている。また、根岸家応接間には、「三餘書院」の立派な額が残っている。
卯三郎は様々な薫陶を友山から受け、友山を大変信頼・尊敬している。それは海外渡航の際の故国へ向けた書簡のあて先が、いずれも甲山の根岸友山様、根岸伴七(母の父親)様となっていることや、初めての子の名づけも友山に依頼したことからもわかる。 卯三郎の熾烈なまでの向学心や行動力、国を思う情と正義感などは、友山から学び取ったものである。

森玉岡

森玉岡(もりぎょっこう)は青年期の卯三郎に大きな影響を与えた人物である。玉岡は寛政10年(1798年)に江戸に生まれ、若くして詩をよくしたが、川俣村の堀越氏に招かれそこで学塾を開く。17歳の卯三郎は兄とともに玉岡の門に入り漢学の学習に励む。玉岡はやがて、羽生市西一丁目の毘沙門道境内に移り、そこを住居兼額塾として教育に当たったが、そこで習った卯三郎は漢学の魅力に取り付かれ、家の事もせず漢学の勉強に励み、一時は漢学の師匠になろうかと思ったほどである。
毘沙門堂境内に「森玉岡翁墓碣銘の碑」があり、それによると羽生の地は辺鄙な土地で、人々は学問を知らなかったが、玉岡によって、学問が盛んになったとある。幕末から明治にかけて活躍した羽生近隣の有識者のほとんどは玉岡の教えを受けていたといえる。

長井五郎

長井五郎(ながいごろう)は元・埼玉県教育長で清水卯三郎研究の第一人者である。
『文芸春秋』の昭和44年7月号で国会図書館専門調査員の杉村武氏によって書かれた「ものわりのはしご」という1文を読み、それに触発されて清水卯三郎の研究に取り組んだ。その1年後の昭和45年6月には『しみづうさぶらう略伝』を出版。更に、卯三郎の孫辰夫の妻常子(いずれも当時故人)の姉である大木はるを長井が訪ねた時に、彼女が保持していた「わがよのき」見て、その卯三郎が全文平仮名で書いた自叙伝『わがよのき』を漢字仮名交じりの文章に書きなおし、「わがよのき解題・焔の人しみづうさぶらうの生涯」を昭和59年に出版する。これがきっかけとなり、卯三郎の研究が世に広まるようになる。平成7年に逝去。

参考・引用文献

『郷土が生んだ偉人 清水卯三郎の生涯』
『郷土・羽生の先覚者 しみづうさぶらう』
『こども郷土資料21 清水卯三郎の生涯』
『清水卯三郎略年譜』
『焔の人 郷土の偉人 清水卯三郎』
『羽生市の人物事典』


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