渡来人
出典: Jinkawiki
渡来人とは古代、中国大陸や朝鮮半島から文化や技術をもって移住してきた人々のことである。かつて、渡来人は「帰化人」と呼ばれていたが、「帰化人」という語句は、批判され今は、「渡来人」が一般的に用いられるようになった。
渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。渡来時期を四つに分けると
①紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。 ②5世紀前後 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。 ③5世紀後半~6世紀 今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。 ④7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。というように考えられる。渡来人が日本に与えた影響は大きく、彼らが伝えた技術や知識によってそれまでの人々の生活が大きく変化していったともいえる。例えば、渡来人が日本にやってきて伝えたものには、いま私たちが何気なく使っている漢字などがあげられる。それだけでなく、古墳文化の形成にも貢献した。
また、古代史料が描く「倭」「日本」への渡来の契機の主となるものを示すと以下のようなものになる。
①自らの意志で渡来 ②漂流による渡来 ③外交使節としての渡来 ④人質としての渡来 ⑤贈与による渡来 ⑥略奪としての渡来 ⑦交易者としての渡来
そして、渡来人増加の背景としては、四世紀半ばに強まる高句麗南進の圧力と、それに連動した朝鮮半島全体の動きが、弥生期以来の列島と加耶南部地域との交流に大きな変化を与えたらしいことが注目されている。つまり、高句麗の南進に抵抗しつつ成長を開始した百済が、加耶諸国と友好関係を築くと、倭もかつてから友好関係にあった加耶南部を介して百済と結びつき、高句麗と対立するようになった。その一端は、四世紀末から五世紀初頭の朝鮮半島えお舞台とした国際紛争への倭の関与というで、高句麗公開土王碑文にも記されている。東アジアの軍事的緊張の増大とともに、旧来からの倭と加耶南部との交流が、百済ともつながり高句麗と対立する国際政治上の同盟関係まで進展した。これが、王権の所在する近畿を中心に、加耶系渡来人を列島へ呼び込むひとつの条件となった。
参考文献
倭国と渡来人 交錯する「内」と「外」 田中史生