湾岸戦争14
出典: Jinkawiki
湾岸戦争
1湾岸戦争とは 1990年8月2日,イラクによるクウェート侵攻をきっかけとした国際紛争。イラクの指導者,サダム・フセインはクウェートへの侵攻と占領を命じた。明らかに同国の大規模な埋蔵石油資源を獲得することが目的であった。このイラクとクウェートの問題についてサダム・フセイン大統領はアメリカの特命全権大使との会談を行うことになった。この会談でアメリカ側大使が問題についての介入を行わないことを表明したうえ、(国境・経済問題には介入は行わないという話だったが、フセイン大統領はこれを拡大解釈した。武力による解決まで不介入というわけではなかったのである。)7月31日にBBCで放送された、アメリカ国務省の中東担当次官による『アメリカと湾岸諸国の間に防衛協定は存在しない』と言う発言により、最後の引き金が引かれてしまうことになった。米国と西ヨーロッパの北大西洋条約機構 NATO同盟国は攻撃を阻止するため,部隊をサウジアラビアに派遣することを決定した。エジプトなどいくつかのアラブ諸国も反イラク連合に加わり,「砂漠の盾作戦」として知られる軍備増強に貢献した。
2戦況 アメリカが準備した最新装備の航空兵力は猛威をふるい、各所でイラク軍を寸断する形となった。 この攻撃の有様はCNNのリアルタイム映像やアメリカ軍が公表した正確に目標を捉えて爆発する画像誘導爆弾の着弾シーンなどで流され、テレビゲームのような戦争などと言われる原因にもなった。1月17日、多国籍軍はイラクに対する空爆を行い、ミサイル攻撃を開始(砂漠の嵐作戦)。2月26日、イラク軍はクウェートから敗走する。2月28日に両軍は戦闘停止する。3月3日、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れ、4月6日、停戦に合意するが、その後イラクは停戦協定を守らず、2003年のイラク戦争に繋がる。湾岸戦争における多国籍軍側の死者は200~400人あまり。対するイラク軍の死者は2万~3万5千人以上といわれている。(数字には諸説あり)。アメリカと多国籍軍の勝利に終わる。 参考文献 『湾岸戦争-いま戦争はこうして作られる』著:ラムゼイ・クラーク 訳:中平信也 『フセイン流戦略の深層』著:佐々木良昭 :フットワーク出版