湾岸戦争4
出典: Jinkawiki
湾岸戦争。 引き金は1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻したことに始まる。 4日後には国連が対イラク経済制裁を開始、その翌日にはアメリカがサウジアラビア防衛を目的とした「オペレーション デザートシールド(砂漠の盾作戦)」を発動し軍を派遣。その後、英仏伊加や幾つかのアラブ諸国も参加した。
そしてその年の11月29日、国連安全保障理事会の外相級公式協議でイラクに対し「1991年1月15日までのクウェート無条件撤退」を最後通告、これに従わなければ加盟国による武力行使を容認すると決議した。(国際連合安全保障理事会決議678) しかし翌日11月30日、イラクは徹底抗戦を表明してこれに対抗。 1991年1月16日に最後通告の期限が切れ、翌17日、多国籍軍が「オペレーション デザートストーム」を発動してイラク・クウェート領内を攻撃、開戦した。
多国籍軍は、開戦初日から過去に例が無い規模の航空作戦を実施する。 最初の目標は航空優勢の確保であった。 その効果は凄まじく、多数のSAMと迎撃戦闘機を配備し、世界でも有数の能力を持つといわれたイラクの防空システム「カリ」は、開戦から3日で能力が1/10に低下し、機能停止した。 イラクの防空部隊はAWACSや電子戦機による高度な運用を行っていた多国籍軍に全く歯が立たなかったのである。
防空網制圧後は、地上軍およびイラク本土の戦略目標にその刃が向けられた。 その中でも誘導爆弾を使用するF-117やF-111、F-15E、トーネード、バッカニアは高い精度で攻撃を成功させていった。 次々と建造物や車両が破壊されていくFLIRの映像は世界中の家庭に配信され、「ピンポイント爆撃」「精密爆撃」や「Nintendo War(ニンテンドーウォー/任天堂戦争/意訳:テレビゲーム的な戦争)」という言葉を生んだ(なおLANTIRNなどのレーザー目標指示器の不足によりF-16、F/A-18、ジャギュアなどは殆どを誘導爆弾を使用しなかった)。 さらにF-117は損害を受ける事無く防空網の厚いバグダッドの目標を破壊するなど、ステルス機の能力を世に知らしめた。 また、巡航ミサイルも使用され、アメリカ海軍はUGM/RGM-109「トマホーク」を288基、アメリカ空軍はB-52からAGM-86C「CALCM」35基を発射した。
このように、湾岸戦争はそれまでの航空戦略・戦術に対する根本的な変革が際立った戦争であったが、その一方で、通常爆弾を搭載したB-52による戦略爆撃が行われたように、旧来の航空戦術も採り入れられていた。 また、戦術偵察機の不足により戦果確認が不十分に終わるといった新たな航空戦の欠点も浮かび上がることとなった。
一連の航空戦に引き続き、2月24日午前4時に地上戦「オペレーション デザートセイバー」が開始。
まず、先鋒となるアメリカ海兵隊がクェート国境の「サダム・フセインライン」に攻撃を開始。
当初激しい反撃が懸念されたが、先の航空戦で殆ど戦意を失ったイラク軍は次々と投降、初期の突破作戦は成功する。
一方、アメリカ陸軍を中心とする多国籍軍地上部隊の主力はその防衛ラインを迂回、イラク軍側面を突く作戦を敢行する。
アメリカ軍の「M1エイブラムス」、イギリス軍の「チャレンジャー」を中心とする戦車1600両、支援車両5万両の大部隊が攻撃を行い、数の上では劣勢であったが、(イラク軍の戦車は旧ソ連製を中心とする約2600両、火砲約1800門)装備と練度に勝る多国籍軍がイラク軍を圧倒した。
この一連の地上戦でイラク軍は莫大な車両を失ったが、多国籍軍の被害は実に数十両*1に過ぎず、一方的な戦闘となった。 「高性能」を謳われ、ソ連の外貨獲得の一翼を担っていた旧ソ連製T-72戦車が、西側戦車に完膚無きまでに叩きのめされ大幅に輸出が減少したことも有名である。*2