湾岸戦争7

出典: Jinkawiki

-湾岸戦争-

1991年1月17日午前3時(アメリカ東部時間16日19時,日本時間17日9時)頃、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに対して攻撃を開始し、湾岸戦争が始まった。

発端は1990年の8月2日、フセイン大統領が指揮するイラクは突如隣国クウェートに侵攻、クウェート側が事態を把握できず、ほとんど抵抗もしていない間にその全土を支配下に収めてしまいった。平和になれていたクウェートの首脳は深夜イラク軍の越境の報告を受けたものの、明日起きてから対策を考えると言って寝てしまったそうだ。しかし起きた時には国土が全て失われていた。

この事態に対して国連の安全保障理事会は緊急に会議を開き6日イラクを非難するとともに速やかにクウェートから撤退するよう強く勧告したが、8日イラクはクウェートの併合を発表しました。

デクエヤル国連事務総長がアジズ・イラク外相と度々会談し、またフランスのミッテラン大統領やロシアのプリマコフ元連邦会議議長、アメリカのベーカー国務長官などもイラクの説得にあたりましたが、結果は芳しくなかった。

イラクは当初偶然その時点でイラクに滞在していた西側一般人を人質として拘束する旨を発表。これに対しても日本ではアントニオ猪木参議院議員など各国の多くのレベルの人たちが働きかけて、少しずつ開放させていった。しかし人質は12月までになんとか全員開放されたものの、イラクは相変わらずクウェートから撤退する意志は全く見せなかった。

国連は何度か期限付きでイラクに撤退を要求し、従わない場合は武力行使も容認するとの安全保障理事会の決議をまとめた。そして最後の期限が1月15日に切れてしまったそれから24時間もすぎていないこの時刻、アメリカのブッシュ大統領は攻撃を決断。

ここで多国籍軍というのは微妙な位置にある。本来はこういうところでは国連軍が出ていくべきだが、国連軍を編成するには安全保障理事会の常任理事国であるロシア・中国などの同意が必要。これらの国はイラクに対する武力行使には慎重な態度を見せていた。そこで苦肉の策としてアメリカは安全保障理事会で玉虫色の決議を行い、有志の国を募る形で多国籍軍を編成した。その中心となったのはアメリカ・イギリス、そしてクウェート軍などであった。クウェート軍の兵士たちはイラクが攻めてきた時に何もできなかった自分達にかなり怒って燃えており、率先して危険な前線に出ていった。

また、エジプト・モロッコ・シリアも「アラブの問題はアラブの手で解決しよう」という趣旨から「アラブ合同軍」を編成し、多国籍軍に協力した。

この作戦全体を指揮したのはアメリカのノーマン・シュワルツコフ陸軍大将とコリン・パウエル統合参謀本部議長(現・国務長官)です。多国籍軍は初めにレーダーに捉えられずに低空を飛んで標的をピンポイント攻撃できる巡行ミサイル「トマホーク」を使ってイラクの拠点を徹底的に破壊。それに続きF15イーグルやステルス戦闘機F-117で完全にイラク・クウェートの制空権を確保しました。そして1月後の2月24日には地上軍を展開させて、イラク軍を総崩れに追い込み、イラクは地上戦開始の3日後27日、クウェート併合の無効を発表、戦争の行方は確定した。

多国籍軍の攻撃の様子は、現地から時々刻々とテレビで公開され、西側諸国ではあたかもテレビゲームでも見ているかのように、多国籍軍の戦果が報告された。(*1)

イラクの兵士たちもアメリカやイギリスの兵には徹底抗戦をしたが同じアラブの同胞であるエジプトやシリアの兵士たちを前にするとすみやかに投降し、無益な戦いをできるだけ避けた。

イラクは当初問題をすり替えるためにイスラエルに大量のミサイルを打ち込んたが、イスラエルは普段なら必ず報復するところを懸命に我慢し、イラクの思惑通りには踊らせされなかった。

多国籍軍はイラクが負けを認めると、ただちに積極的な攻撃は停止したのでイラク軍の主力は温存されることとなり、この結果フセイン政権は延命可能となり、イラク情勢はこのあと10年間硬直したまますぎることになってしまった。攻撃停止命令があと2~3日あとに出ていたら、フセイン政権はすぐにも倒れていたかも知れない。むろんそれだけ多くの犠牲者も出していたわけで、このあたりの判断はたいへん難しいところだ。

日本も国際正義を実行するためであれば、たとえ文官や医務官でもいいからこの作戦に参加すべきだっただろうが、国連軍ではなく多国籍軍という形になったこともあり、国会での同意取り付けが困難として戦争費用のみを負担。約150億ドル(約2兆円)の出費をしている。ただ、この戦役は国民の間にいやがおうでも自衛隊の海外派遣に関する議論を呼び起こした。

-テレビゲーム戦争-

湾岸戦争は、テレビゲーム戦争といわれた。アメリカのCNNテレビが伝える戦場の光景には人間がほとんど登場せず、アメリカのミサイルとイラクの高射砲が飛び交う光景をお覚えの方もおられよう。ハイテク兵器が初めて全面に立った戦争であった。 また、テレビが大きな役割を果たす情報戦争でもあった。CNNテレビの特派員はイラクの情報将校の監督の下で中継に当たり、しかもCNNしか戦争の最前線を伝えない、という状況が生じたのである。情報は国際情勢の生命、扇の要であるゆえに、その源をイラク軍に押さえさせたフセインは天才だった。 CNNが唯一の情報源だったことを示すエピソードをひとつ。アメリカとソ連が湾岸戦争について協議した際、ソ連の持参した情報は、CNNを録画したビデオテープだった。KGBなどのスパイ組織をもっていたソ連政府が、である。


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